ブランデンブルクとプロイセンの歴史
ノルトマルク
965年 - 983年プルーセン
先史 - 13世紀
リューティチ族(英語版)
983年 - 12世紀
ブランデンブルク辺境伯領
1157年 - 1618年(1806年)ドイツ騎士団国
1224年 - 1525年
プロイセン公国
1525年 - 1618年(1701年)王領プロイセン
1454年 / 1466年 - 1772年
ブランデンブルク=プロイセン
1618年 - 1701年
プロイセン王国
1701年 - 1772年
プロイセン王国
1772年 - 1918年
プロイセン自由州
1918年 - 1947年クライペダ地方
1920年 - 1939年 / 1945年 - 現在回復領
1918年 / 1945年 - 現在
ブランデンブルク州
1947年 - 1952年 / 1990年 - 現在カリーニングラード州
1945年 - 現在
プロイセン王国(プロイセンおうこく、独: Konigreich Preusen)は、ホーエンツォレルン家の君主が統治したヨーロッパの王国である。現在のドイツ北部からポーランド西部にかけてを領土とし、首都はベルリンにあった。
プロイセン王国は、18世紀から20世紀初頭にかけて栄えた王国である。その前身は1660年のオリヴァ条約でポーランド王国の封土の地位から独立したプロイセン公国、およびドイツ国民の神聖ローマ帝国の領邦であるブランデンブルク辺境伯領である[5]。1701年1月18日、ブランデンブルク選帝侯・プロイセン公フリードリヒ3世はケーニヒスベルクにおいてプロイセン王として戴冠し、初代プロイセン王フリードリヒ1世となった[6]。1871年のドイツ国成立によって形式的な国家になったものの、1918年11月9日に第9代プロイセン国王兼第3代ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位・逃亡するまでプロイセン王国は続いた[7]。
プロイセンという名称はプルーセン人というケーニヒスベルク周辺に住んでいた民族名に由来する[8]。プルーセン人はドイツ騎士団に大半が殺され、文化や民族意識は消滅した。しかし、そのドイツ騎士団が作った国をプロイセンと呼ぶようになった[5]。ケーニヒスベルクは現在までプロイセン王国の故地とみなされている[9]。
王国はユーラシア大陸西部にあり、北をバルト海に接する丘陵地帯に誕生した。領土は、現在のドイツ北部、ポーランド北部、カリーニングラード州(当時は東プロイセン)、ユトランド半島からなるが、領土のあちこちに穴があり、埋め合わせることは困難だった。ヴァイクセル川下流域を境とする北東部は東プロイセンと呼ばれ、東方植民によるドイツ人入植地としては事実上の北限であった[注釈 1][10]。 バルト海沿岸の地域をドイツ語でプロイセン(Preusen)と呼んだことから、これが国名になった。プロイセンの地名は、バルト海沿岸の先住民族で自らをプルーサと名乗っていたプルーセン人に由来する。プロイセンは英語ではPrussia、フランス語ではPrusse、プロシア語ではPruqsasとなる。 日本語での表記は、ドイツ語に由来する「プロイセン」のほか、英語に由来する「プロシア」や「プロシャ」がある。漢字による表記では、普魯西と表記され、「普」「普国」と略される。なお、明治時代には孛漏生の字も当てられた[11]。「孛」「.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}孛国(ぼっこく)」と略されて、江藤新平が漢詩にこの字を用いている[12]。
国名
歴史ライン同盟諸国
ドイツ連邦
北ドイツ連邦南部諸国
ドイツ帝国
ヴァイマル共和政
ナチス・ドイツ
連合軍軍政期
ドイツ民主共和国