プロイセン王国
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1871年のドイツ国成立によって形式的な国家になったものの、1918年11月9日に第9代プロイセン国王兼第3代ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世退位・逃亡するまでプロイセン王国は続いた[7]

プロイセンという名称はプルーセン人というケーニヒスベルク周辺に住んでいた民族名に由来する[8]。プルーセン人はドイツ騎士団に大半が殺され、文化や民族意識は消滅した。しかし、そのドイツ騎士団が作った国をプロイセンと呼ぶようになった[5]。ケーニヒスベルクは現在までプロイセン王国の故地とみなされている[9]

王国はユーラシア大陸西部にあり、北をバルト海に接する丘陵地帯に誕生した。領土は、現在のドイツ北部、ポーランド北部、カリーニングラード州(当時は東プロイセン)、ユトランド半島からなるが、領土のあちこちに穴があり、埋め合わせることは困難だった。ヴァイクセル川下流域を境とする北東部は東プロイセンと呼ばれ、東方植民によるドイツ人入植地としては事実上の北限であった[注釈 1][10]
国名

バルト海沿岸の地域をドイツ語プロイセン(Preusen)と呼んだことから、これが国名になった。プロイセンの地名は、バルト海沿岸の先住民族で自らをプルーサと名乗っていたプルーセン人に由来する。プロイセンは英語ではPrussia、フランス語ではPrusse、プロシア語ではPruqsasとなる。

日本語での表記は、ドイツ語に由来する「プロイセン」のほか、英語に由来する「プロシア」や「プロシャ」がある。漢字による表記では、普魯西と表記され、「普」「普国」と略される。なお、明治時代には孛漏生の字も当てられた[11]。「孛」「.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}孛国(ぼっこく)」と略されて、江藤新平が漢詩にこの字を用いている[12]
歴史

ドイツの歴史

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王国の誕生

プロイセン王国の基幹となるブランデンブルク選帝侯領プロイセン公国ヨーハン・ジギスムントの下で同君連合となったのは1618年のことであった(ブランデンブルク=プロイセン[5]。オランダ総督との姻戚関係によって威勢を増したフリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯は、大洪水時代(ポーランド・スウェーデン戦争)の北方戦争で両国の間で政治的にうまく立ち回った[13]1657年ヴェーラウ条約および、1660年のポーランドとスウェーデンとの間で締結されたこの戦争の講和条約であるオリヴァ条約によって、プロシア公領はポーランドスウェーデン宗主権から解放された。これによってその子フリードリヒ3世は「プロイセンにおける王」を名乗ることができたのである。

ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世は1701年1月18日、ケーニヒスベルクにおいて戴冠し、プロイセン王国の初代君主フリードリヒ1世となった。目前に迫ったスペイン継承戦争のために兵力を集めていた神聖ローマ皇帝レオポルト1世は、8,000の兵を援軍として派遣することを条件に、フリードリヒの王号を認めたのである[6]。しかし1700年11月16日に結ばれたこの王冠条約が認めた称号は、神聖ローマ帝国の領域外の「プロイセンにおける王」(Konig in Preusen)に過ぎず、「プロイセン国王」(Konig von Preusen)という王号ではなかった。それでもバロックの時代における王という称号の魅力はとても大きく、フリードリヒ1世が帝国内外のあちこちに散らばった世襲領の臣下たちの心を1つにまとめることに成功したことは確かであった。

フリードリヒ1世はユグノーに影響されてルイ14世に倣った華美な生活を愛した。そのため彼の浪費は常に国庫を圧迫し続けた。王は教養人でもあり芸術科学アカデミーを設立、シャルロッテンブルク宮殿を造営し、ベルリンを開拓地から「シュプレー河畔のアテネ」と呼ばれる文化都市に作り変えた。プロイセン科学アカデミーの初代院長はライプニッツである。またこのころ彫刻家アンドレアス・シュリューター(Andreas Schlueter)がフリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯の騎馬像を制作している。プロイセンは農業が衰え工業化が進んだ西欧諸国とは異なり、ユグノーとユンカーが運営する大規模農業が存続した。彼らは西欧諸国に農産物を大量に輸出して王国を繁栄させた。

この頃、プロイセン王国の領域は、ホーエンツォレルン家の世襲したブランデンブルク選帝侯国(厳密な意味ではブランデンブルクその他の帝国内の領地は王国には含まれない)と旧プロイセン公国、そのほか若干の各地に散らばったいくつかの小さな領地を合わせたものだった。これらばらばらの領土は防衛に不利なこと甚だしく、プロイセンを守ることはすなわち、これらをつなぎ合わせるための不断の膨張を意味していた。歴代の国王は地理的な統合を求めて相続・侵略を繰り返していくことになる。
軍国プロイセンの発展

フリードリヒ1世は1713年に死去し、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が即位する。彼は「兵隊王」とあだ名され、プロイセン王国を強大な軍事国家にした。彼は財政を切り詰め、徴兵制を導入して軍隊を強化した[14]。またペストによって人口の減少した東プロイセンに、フランスから亡命してきたユグノーたちを有利な条件で誘致したり、輸出入を管理して国内産業の保護に努めたりした。1720年に大北方戦争の終結によって結ばれたストックホルム条約で、プロイセンは前ポンメルンウーゼドム島ヴォリン島などを獲得している。


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