プロイセン王国
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しかしまた内相によって派遣された中央政府の役人としては、郡の自治体を監視し、警察、軍隊関係の事務処理、国家の直接税徴収などにあたる[30]

日本語名ドイツ語名州都備考
ブランデンブルク州Provinz Brandenburgポツダム
東プロイセン州Provinz Ostpreusenケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード
西プロイセン州Provinz Westpreusenダンツィヒ(現ポーランド領グダニスク
ポンメルン州(英語版、ドイツ語版)Provinz Pommernシュテッティン(現ポーランド領シュチェチン
シュレージエン州Provinz Schlesienブレスラウ(現ポーランド領ヴロツワフ
ポーゼン州Provinz Posenポーゼン(現ポーランド領ポズナン)ポーランド人の自治領であったポズナン大公国を廃止して1848年に設置。
ユーリヒ=クレーフェ=ベルク州Provinz Julich-Kleve-Bergケルン1822年廃止
ニーダーライン州Provinz Grosherzogtum Niederrheinコブレンツ1822年廃止
ヴェストファーレン州Provinz Westfalenミュンスター
ザクセン州Provinz Sachsenマクデブルク1815年にザクセン王国から割譲。割譲後のザクセン王国の領土からなる現在のザクセン州とは完全に領域が異なる。

更に1822年、ユーリヒ=クレーフェ=ベルク州とニーダーライン州は合併し、コブレンツを州都とするライン州(Rheinprovinz)が設置された。1829年には東プロイセン州と西プロイセン州を合併してケーニヒスベルクを州都とするプロイセン州(Provinz Preusen)が設置されたが、これは1878年に元へ戻された。1849年にはホーエンツォレルン家の遠戚が統治していたホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯国とホーエンツォレルン=ヘヒンゲン侯国を併合、両侯国を併せて州都をジグマリンゲンとするホーエンツォレルン州(Hohenzollernsche Lande)が設置された。

このほか、1866年の普墺戦争に勝利した後、プロイセンは獲得した新領土に以下の州を置いた。

日本語名ドイツ語名州都備考
ハノーファー州Provinz Hannoverハノーファーハノーファー王国
ヘッセン=ナッサウ州Provinz Hessen-Nassauカッセルヘッセン選帝侯国およびナッサウ公国
シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州Provinz Schleswig-Holsteinキール
(1879年から1917年まではシュレースヴィヒ)旧シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国

都市

下はプロイセン王国の主な都市である。現在ではロシア領やポーランド領に編入されたため、都市名が変わっている場合が多い。
ブランデンブルク州

ベルリン

ポツダム

フランクフルト・アン・デア・オーダー

キュストリーンコストシン・ナド・オドロン

東プロイセン州

ケーニヒスベルクカリーニングラード

アレンシュタイン(オルシュティン

メーメル(クライペダ

ティルジット(ソヴィェツク

西プロイセン州

ダンツィヒ(
グダニスク

マリーエンブルク(マルボルク

エルビング(エルブロンク

トルン(トルニ

ディルシャウ(トチェフ

グラウデンツ(グルジョンツ

シュナイデミュール(ピワ

シュレージエン州

ブレスラウ(
ヴロツワフ

リーグニッツ(レグニツァ

グローガウ(グウォグフ

グリューンベルク(ジェロナ・グラ

オペルン(オポーレ

グライヴィッツ(グリヴィツェ

ボイテン(ビトム

カトヴィッツ(カトヴィツェ

ケーニヒスヒュッテ(ホジューフ

ポンメルン州

シュテティーン(
シュチェチン

シュタルガルト(スタルガルト・シュチェチンスキ

コルベルク(コウォブジェク

ケスリーン(コシャリン

シュトルプ(スウプスク

ポーゼン州

ポーゼン(
ポズナン

ブロムベルク(ブィドゴシュチュ

グネーゼン(グニェズノ

ヴェストファーレン州

ミュンスター

ドルトムント

パーダーボルン

ライン州

ケルン

エッセン

デュッセルドルフ

デュースブルク

ボン

コブレンツ

住民

プロイセン王国の人口は、建国当時から消滅まで年々増加傾向にあった。そのプロイセンを形成する住民は殆どがドイツ人であり、元々プロイセン地域に住んでいたプルーセン人は少なかった。これは、13世紀頃にドイツ騎士団による東方植民によってプルーセン人がドイツ化され、人口が減少したからである。それでも、プルーセン人は少なからず住んでいた。

主要民族はドイツ人だが、東部のポーゼンおよびオーバー(上)シュレージエン地方にはポーランド人農村部を中心に多数居住していた。王国が産業革命期になると彼らは職と高収入を求めて、ドルトムントなどといった王国西部の工業地帯の諸都市に大量に移住した(オストフルヒト)。また、東プロイセン南部の湖沼地帯(マズール地方)のマズール人(ポーランド人のうちのマズリア地方住民)・西プロイセン北部のカシューブ人等、スラヴ系の少数民族や、北部からのデンマーク人、先進諸国から迫害を受けて、自由を求めてプロイセンに亡命してきたイギリス人フランス人なども居住していた。ベルリンブレスラウケーニヒスベルクなどの大都市にはユダヤ人が多数居住した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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