プロイセン王国
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「孛」「.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}孛国(ぼっこく)」と略されて、江藤新平が漢詩にこの字を用いている[12]
歴史

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王国の誕生

プロイセン王国の基幹となるブランデンブルク選帝侯領プロイセン公国ヨーハン・ジギスムントの下で同君連合となったのは1618年のことであった(ブランデンブルク=プロイセン[5]。オランダ総督との姻戚関係によって威勢を増したフリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯は、大洪水時代(ポーランド・スウェーデン戦争)の北方戦争で両国の間で政治的にうまく立ち回った[13]1657年ヴェーラウ条約および、1660年のポーランドとスウェーデンとの間で締結されたこの戦争の講和条約であるオリヴァ条約によって、プロシア公領はポーランドスウェーデン宗主権から解放された。これによってその子フリードリヒ3世は「プロイセンにおける王」を名乗ることができたのである。

ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世は1701年1月18日、ケーニヒスベルクにおいて戴冠し、プロイセン王国の初代君主フリードリヒ1世となった。目前に迫ったスペイン継承戦争のために兵力を集めていた神聖ローマ皇帝レオポルト1世は、8,000の兵を援軍として派遣することを条件に、フリードリヒの王号を認めたのである[6]。しかし1700年11月16日に結ばれたこの王冠条約が認めた称号は、神聖ローマ帝国の領域外の「プロイセンにおける王」(Konig in Preusen)に過ぎず、「プロイセン国王」(Konig von Preusen)という王号ではなかった。それでもバロックの時代における王という称号の魅力はとても大きく、フリードリヒ1世が帝国内外のあちこちに散らばった世襲領の臣下たちの心を1つにまとめることに成功したことは確かであった。

フリードリヒ1世はユグノーに影響されてルイ14世に倣った華美な生活を愛した。そのため彼の浪費は常に国庫を圧迫し続けた。王は教養人でもあり芸術科学アカデミーを設立、シャルロッテンブルク宮殿を造営し、ベルリンを開拓地から「シュプレー河畔のアテネ」と呼ばれる文化都市に作り変えた。プロイセン科学アカデミーの初代院長はライプニッツである。またこのころ彫刻家アンドレアス・シュリューター(Andreas Schlueter)がフリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯の騎馬像を制作している。プロイセンは農業が衰え工業化が進んだ西欧諸国とは異なり、ユグノーとユンカーが運営する大規模農業が存続した。彼らは西欧諸国に農産物を大量に輸出して王国を繁栄させた。

この頃、プロイセン王国の領域は、ホーエンツォレルン家の世襲したブランデンブルク選帝侯国(厳密な意味ではブランデンブルクその他の帝国内の領地は王国には含まれない)と旧プロイセン公国、そのほか若干の各地に散らばったいくつかの小さな領地を合わせたものだった。これらばらばらの領土は防衛に不利なこと甚だしく、プロイセンを守ることはすなわち、これらをつなぎ合わせるための不断の膨張を意味していた。歴代の国王は地理的な統合を求めて相続・侵略を繰り返していくことになる。
軍国プロイセンの発展

フリードリヒ1世は1713年に死去し、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が即位する。彼は「兵隊王」とあだ名され、プロイセン王国を強大な軍事国家にした。彼は財政を切り詰め、徴兵制を導入して軍隊を強化した[14]。またペストによって人口の減少した東プロイセンに、フランスから亡命してきたユグノーたちを有利な条件で誘致したり、輸出入を管理して国内産業の保護に努めたりした。1720年に大北方戦争の終結によって結ばれたストックホルム条約で、プロイセンは前ポンメルンウーゼドム島ヴォリン島などを獲得している。1727年ザルツブルク大司教フィルミアン男爵レオポルド・アントン・エロイテリウス(英語版)が始めた新教徒迫害(de:Salzburger Exulanten)は1731年から1733年には最高潮に達し、東プロイセンへの追放者約2万人を受け入れたため、王国は繁栄にむかった。国王が宮廷費を削減し、産業の発展に注ぎ込んだために、王国の産業は大きく発展した。

「大王」フリードリヒ2世は即位した1740年に多くの啓蒙主義的な改革を行った。拷問の廃止・宗教寛容令・アカデミー復興・新聞の創刊を実現し、ベルリンはユグノーらと栄えた。王立銀行(後のプロイセン銀行(ドイツ語版))も彼が創設した。ここの頭取をカール・テオフィル・ギシャールが務めた。兵隊王の残した軍隊はさらに増強され、豊かなシュレージエンを侵攻、オーストリア継承戦争七年戦争という2度の苦しい戦いを耐え抜き、1763年のフベルトゥスブルク条約シュレージエンの領有が確定する。1772年ポーランド分割により西プロイセン、エルムラント、ネッツェを獲得し、大王の治世の間にプロイセン王国の領土と人口は約2倍に、常備軍は22万になった。プロイセン王はもはや誰はばかることなく「プロイセン国王」(Konig von Preusen)を名乗ることができた。王立印刷局(ドイツ連邦印刷局の前身)が初めて創設され[15]ボン大学ミュンスター大学など学術機関の拡充も進んだ(ドイツの大学一覧)。

大王の後を継いだ甥のフリードリヒ・ヴィルヘルム2世の時代もプロイセン王国は成長を続けた。米独立戦争後の1791年、アンスバッハ=バイロイト辺境伯のカール・アレクサンダーに終身年金を与え、その領土を譲り受けた。フリードリヒ・ヴィルヘルム2世は受領と管理のためにカール・アウグスト・フォン・ハルデンベルクを責任者として赴任させた。ユグノーらの投資がきっかけとなった1792年1795年の2度のポーランド分割によって、ダンツィヒトルンおよび新東プロイセンと南プロイセンもその版図に加えた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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