プロイセン王国(プロイセンおうこく、独: Konigreich Preusen)は、ホーエンツォレルン家の君主が統治したヨーロッパの王国である。現在のドイツ北部からポーランド西部にかけてを領土とし、首都はベルリンにあった。
プロイセン王国は、18世紀から20世紀初頭にかけて栄えた王国である。その前身は1660年のオリヴァ条約でポーランド王国の封土の地位から独立したプロイセン公国、およびドイツ国民の神聖ローマ帝国の領邦であるブランデンブルク辺境伯領である[5]。1701年1月18日、ブランデンブルク選帝侯・プロイセン公フリードリヒ3世はケーニヒスベルクにおいてプロイセン王として戴冠し、初代プロイセン王フリードリヒ1世となった[6]。1871年のドイツ国成立によって形式的な国家になったものの、1918年11月9日に第9代プロイセン国王兼第3代ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位・逃亡するまでプロイセン王国は続いた[7]。
プロイセンという名称はプルーセン人というケーニヒスベルク周辺に住んでいた民族名に由来する[8]。プルーセン人はドイツ騎士団に大半が殺され、文化や民族意識は消滅した。しかし、そのドイツ騎士団が作った国をプロイセンと呼ぶようになった[5]。ケーニヒスベルクは現在までプロイセン王国の故地とみなされている[9]。
王国はユーラシア大陸西部にあり、北をバルト海に接する丘陵地帯に誕生した。領土は、現在のドイツ北部、ポーランド北部、カリーニングラード(当時はケーニヒスベルク)、ユトランド半島からなるが、領土のあちこちに穴があり、埋め合わせることは困難だった。ヴァイクセル川下流域を境とする北東部は東プロイセンと呼ばれ、東方植民によるドイツ人入植地としては事実上の北限であった[注釈 1][10]。 バルト海沿岸の地域をドイツ語でプロイセン(Preusen)と呼んだことから、これが国名になった。プロイセンの地名は、バルト海沿岸の先住民族で自らをプルーサと名乗っていたプルーセン人に由来する。プロイセンは英語ではPrussia、フランス語ではPrusse、プロシア語ではPruqsasとなる。 日本語での表記は、ドイツ語に由来する「プロイセン」のほか、英語に由来する「プロシア」や「プロシャ」がある。漢字による表記では、普魯西と表記され、「普」「普国」と略される。なお、明治時代には孛漏生の字も当てられた[11]。「孛」「.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}孛国(ぼっこく)」と略されて、江藤新平が漢詩にこの字を用いている[12]。 プロイセン王国の基幹となるブランデンブルク選帝侯領とプロイセン公国がヨーハン・ジギスムントの下で同君連合となったのは1618年のことであった(ブランデンブルク=プロイセン)[5]。オランダ総督との姻戚関係によって威勢を増したフリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯は、大洪水時代(ポーランド・スウェーデン戦争)の北方戦争で両国の間で政治的にうまく立ち回った[13]。1657年のヴェーラウ条約および、1660年のポーランドとスウェーデンとの間で締結されたこの戦争の講和条約であるオリヴァ条約によって、プロシア公領はポーランド、スウェーデンの宗主権から解放された。これによってその子フリードリヒ3世は「プロイセンにおける王」を名乗ることができたのである。 ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世は1701年1月18日、ケーニヒスベルクにおいて戴冠し、プロイセン王国の初代君主フリードリヒ1世となった。
国名
歴史ライン同盟諸国
ドイツ連邦
北ドイツ連邦南部諸国
ドイツ帝国
ヴァイマル共和政
ナチス・ドイツ
連合軍軍政期
ドイツ民主共和国
(東ドイツ)ドイツ連邦共和国
(西ドイツ)
ドイツ連邦共和国
王国の誕生