プレーク・ピブーンソンクラーム
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ピブーンソンクラームは同11日には日本国軍隊のタイ国領域通過に関する協定を承認した。ピブーンソンクラームは事実この協定に乗り気ではなかった、この協定がタイを事実上、日本の占領下に置くことになりるためである。ピブーンソンクラーム自身も「山の上から岩石が落ちてきたようなもの」との旨をコメントしていた。

しかし、ピブーンソンクラームは協定の締結後態度が一変する。この協定ではタイが日本に協力することを要求していた一方で、機密事項として日本はタイの失地回復に協力するとしていたからである。ピブーンソンクラームは、この時日本との協定はタイにとって利があると判断したため、1942年1月8日にはイギリス軍が首都・バンコクを爆撃したのを機に25日、ピブーンソンクラームは中立政策を完全に翻し英国、米国に宣戦布告。タイは枢軸国となった。
第2次ピブーン内閣

1942年3月6日 - 1944年8月1日

1942年4月ごろ、後に首相になるセーニー・プラーモートは祖国が日本に「占領」されているのを見て、自由タイという抗日運動をアメリカ留学仲間と始めた。これは後にイギリスのタイ人留学グループにまでおよび英国では自由タイのメンバーは英国兵として受け入れられ、特殊訓練が施された。またピブーンソンクラーム内閣の閣僚で国内にいたルワン・プラディットマヌータム(本名プリーディー・パノムヨン、後の首相)までも参加していた。むろんピブーンソンクラームはこれに気が付いていたが、黙認し、一方で日本に対しては自由タイなどないかのように振る舞っていた。

このころまでに日本の行為はタイの社会を混乱させるようになった。日本は日本国内の慢性的な食糧不足を改善するために、タイ米を日本に送ろうとし、バーツを円と等価に切り下げた。またタイ政府から大量の軍費を借り入れ、それを、戦時で物流の乏しかったタイの市場で大量に消費したが、これはタイ国内で大きなインフレを生じ、農村経済に打撃を与えた。同盟国であったため泰緬鉄道の建設現場以外ではあからさまな虐待が行われなかったものの、店の商品をくすねたりと言うようなことも行われ、官吏・一般人を問わず素行の悪い一部の者により、日本は大いに評判を下げていた。現在、タイにある日本人にたいする蔑称(ユンピー「ニポ公」やアイティア「ちび」)もこのころ生まれたと考えられている。

1943年2月13日敗戦の色が濃くなってきたため、ピブーンソンクラームは辞表をラーマ8世(アーナンタ・マヒドン)に提出する。2日後気を取り直して辞表を撤回するが、10月20日には自由タイのメンバーであったディレーク・チャイヤナームを外相に就任させた。このとき、ピブーンソンクラームはすでに、敗戦に向けてある程度腹をくくっていたようである。

1943年2月6日、ピブーンソンクラームは首都が壊滅したときのことを考えて、日本軍の知らないところでペッチャブーン仏教都市建設計画を発表。7月4日には東條英機マレーの4州とビルマ(ミャンマー)のモンパン州、ケントン州を手みやげにピブーンソンクラームを訪れたが、ピブーンソンクラームはあまり興味を示さず、大東亜会議には日本から要求されたものの病気であると称してラーマ4世(モンクット)の孫であるワンワイタヤーコーン親王を代理として派遣するに留まった。

翌年7月22日、これまでのピブーンソンクラームの独裁ぶりに反感を持つ者のたまり場と化していた人民代表院によってペッチャブーン仏教都市計画が否決され、ついでに不信任案を突きつけた。ピブーンソンクラームは2日後自ら辞表を提出し、首相を退いた。
政界一時引退時期

1943年8月17日、新首相クアン・アパイウォンロッブリーでピブーンソンクラームと会談した。これはピブーンソンクラームが元帥に就任したままになれば、敗戦時に連合国側から責任を問われるのをクアンが恐れたため、何らかの形でピブーンソンクラームが軍事方面から身を退く必要があることを伝えるためである。その一方でクアンはピブーンソンクラーム首相就任時代の反対派一掃作戦の二の舞になるのを恐れていた。会談の結果は、ピブーンソンクラームは頑なに元帥の地位から降りることを拒否したのみであった。のち、8月25日、クアンは強制的にピブーンソンクラームを元帥から罷免したうえで(罷免されても元帥の称号は残る)、ある程度の譲歩を見せピブーンソンクラームを国家最高顧問の座につけた。

その後ピブーンソンクラームはパトゥムターニーに身をひそめていたが、後に終戦を迎えて自由タイが政権の座につくと、9月13日に首相のタウィー・ブンヤケート(任期:1945年8月31日 - 9月17日)によって最高顧問を解任された。セーニー・プラーモート(任期:1945年9月17日 ? 1946年1月13日)首相が就任すると、10月10日戦争犯罪人法が成立し、投獄された。翌1946年1月31日クアン・アパイウォンが首相に復帰したが直後の3月に辞任し、自由タイ系の政治家が短期間の間に入れ替わり、政府は非常に不安定な状態が続いた。

プリーディー・パノムヨン(任期:1946年3月24日 ? 1946年8月23日)は混乱しきった政局を収集するために尽力し、4月には戦争犯罪人法が無効であるという判決が最高裁でなされ、ピブーンソンクラームは無罪放免で釈放の運びとなった。

1946年5月にフランス軍がタイ領を攻撃した。国際社会への復帰を優先せざるを得ないプリーディー政権は領土の引き渡しに応じ、ナコーン・チャンパーサック県(タイ語版)、ピブーンソンクラーム県(英語版)、プレアタボン県(英語版)の3県(旧仏印のチャンパーサック県バタンバン州シェムリアップ州)はフランスに返還された。

1946年6月9日にアーナンタ・マヒドン王(ラーマ8世)が多少不可解な状況の死に方をしており、公式見解としては銃の手入れ中の暴発事故だという。
ピブーンの返り咲き

この時代インドシナでは共産党が勢力をのばしつつあったが、自由タイ系の不安定な政府が、インドシナ共産化の危機を感じていないことに対する危機感が軍部内部で高まり、ピブーンソンクラームは軍部から政変団(??????????????? - National Soldier’s Committee)と呼ばれる組織を作り、1947年11月8日、タイ・クーデター(英語版)(???????????????????? ?.?. 2490、「仏暦2490年のタイ・クーデター」)を起こし、タワン・タムロンナーワーサワットが辞職し、クアン・アパイウォンが新たに首相に就いた。これによりピブーンソンクラーム男爵は政界に復帰し、仏暦2490年タイ王国憲法が成立した。

翌年、ピブーンソンクラームは軍部を使ってクアン・アパイウォンに圧力をかけ、結果的に退陣させた。これをピブーンの返り咲きという。
第3次ピブーン内閣

1948年4月8日 - 1949年6月15日

ピブーンソンクラームはクアン・アパイウォンに圧力をかけ、結果的にクアン内閣を総辞職に追い込んだ。これにより1948年4月8日に第3次ピブーン内閣が発足した。同年10月1日、これに反感を持つ将校反乱が発生したが、ピブーンソンクラーム男爵はこれを鎮圧した。その後1949年2月26日には、プリーディー・パノムヨンが関連していると見られる王宮反乱が起こった。これを鎮圧したのが後に首相になるサリット・タナラットであった。この後サリットがピブーン政権内で台頭し、後にピブーンソンクラームに重用されるパオ・シーヤーノンと並んでピブーン政権内部の有力者となり、ピブーンソンクラームは二頭のゾウに乗っていると称された。他にも1950年1月29日洪水反乱と呼ばれるカート・カートソンクラーム(タイ語版)による反乱も起こった。1949年3月23日、仏暦2492年タイ王国憲法が成立しのちに、摂政が交代した後一旦内閣を解散、再編し1949年6月25日、第4次ピブーン内閣を成立させた。
第4次ピブーン内閣

1949年6月25日 - 1951年11月29日

ピブーンソンクラームはこのころアメリカ寄りの外交を見せ、1950年にはアメリカと経済協定(9月19日)、軍事協定(10月27日)を結んだ。

1951年6月21日、海軍を中心にした救国団により、マンハッタン号事件が起きた。これは、米軍からタイ海軍へマンハッタン号を贈与する式典中に、空軍がマンハッタン号を爆破した事件である。

式典に出席していたピブーンソンクラームは、2人の副官とともに海軍の砲艦に連行・拘束されたが、政府側は砲艦を爆撃。隙をついて艦から、チャオプラヤー川に飛び込み、とある警官に引き上げられで命を長らえた。クーデターは短期間で失敗し[6]、海軍は後に勢力を縮小され、以降クーデターを主体的に行うことはなくなった。

同年の11月29日、政変団のメンバーであったピン・チュワンハンがクーデターを起こした。これはピブーンソンクラームに仕組まれたものであった。俗に静かなるクーデターと呼ばれ、仏暦2475年サヤーム王国憲法の復興を目指したものであった。これにより第5次ピブーン内閣が成立、全政党が解散し、政治はピブーンソンクラームの独裁体制となった。
第5次ピブーン内閣

1951年11月29日 - 1951年12月8日

この内閣は非常に一時的なもので、ピブーンソンクラームは12月6日、仏暦2492年タイ王国憲法を廃止、仏暦2475年サヤーム王国憲法とその改正憲法一時的に復活させ、その2日後、内閣は総辞職し、第6次ピブーン内閣が発足した。
第6次ピブーン内閣

1951年12月8日 - 1952年3月23日

この内閣も一時的なもので、翌年の2月26日に選挙が行われ、3月8日には仏暦2495年改正版・仏暦2475年タイ王国憲法が成立した。これにより、第7次ピブーン内閣が成立した。
第7次ピブーン内閣


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