1999年のコソボ紛争の後、国際連合コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)統治下となったコソボの州境からユーゴスラビア連邦共和国本土の側に幅5キロメートルの地上安全地帯(Ground Safety Zone; GSZ)が設定された。ユーゴスラビア連邦軍の部隊はこの地域をパトロールすることは認められず、軽武装の警察部隊のみが治安維持にあたるとされた。この緩衝地帯の中には、ブヤノヴァツ自治体に属し、アルバニア人が多数を占めるドブロシン / ドブロシニ
(Dobrosin / Dobrosini)村が含まれていた。コソボ紛争後に公的には武装解除されたコソボ解放軍をモデルにした、新しい武装ゲリラが結成された。コソボとの州境に近い緩衝地帯では、ユーゴスラビアは警察部隊のみでの活動しか認められていなかったため、セルビア側からの報復を受ける危険性が比較的少なかった。
ゲリラの目的はプレシェヴォおよびブヤノヴァツ、さらにメドヴェジャの支配権を確立し、隣接するコソボやマケドニア共和国のアルバニア人地域と統合されるまでの間、維持することであった。
衝突セルビア警察特殊作戦部隊の隊員(2009年)セルビア陸軍第63空挺大隊(ユーゴスラビア連邦軍第63空挺旅団の後身)の隊員(2005年)
1999年6月21日から2000年11月12日までの間、294回の攻撃が記録され、うち246回はブヤノヴァツ、44回はメドヴェジャ、6回はプレシェヴォ自治体で発生した。攻撃によって14人が死亡(うち6人は民間人、8人は警官)、37人が負傷(2人の国連の職員、3人の市民、34人の警官)し、5人の民間人が拉致された。攻撃では、「解放軍」は主にアサルトライフル、機関銃、迫撃砲などのほか、RPG、手榴弾、対戦車地雷、対人地雷も用いられた[5]。
2000年11月23日、4人のセルビアの警官が民兵との戦闘で死亡した[6]。2001年2月18日、3人のセルビア人が対戦車地雷を自動車で踏んで死亡した[7]。この日のうちに、警察は被害にあった自動車を調査し、迫撃砲や対人火器による攻撃を受けた。警察は反撃し、ブヤノヴァツの広報によるとアルバニア人勢力に負傷者が出たと見られるとした[8]。
国際的なメディアの関心を欠く中、ゲリラの活動の中心は南に隣接するマケドニア共和国へと移った。マケドニアでは、「解放軍」との強い関連があるとみられる民族解放軍がマケドニア政府に対して反乱を起こし、マケドニア紛争へと発展していた。
2001年5月15日、ユーゴスラビアは、緩衝地帯の外側にある最後のプレシェヴォ・メドヴェジャ・ブヤノヴァツ解放軍の拠点のあるオラオヴィツァ / ラホヴィツァ(Oraovica / Rahovica)を攻撃した。