1920年5月にカランサが殺害され、ソノラ州のアドルフォ・デ・ラ・ウエルタが臨時大統領に就任すると、エリアス・カリェスは国防相に任命された[1][2]。同年オブレゴンが大統領に就任すると、その内務相に就任した[1][3][2]。1923年にデ・ラ・ウエルタがオブレゴン政権に対して反乱を起こすと、エリアス・カリェスは反乱を鎮圧するために戦った[1][2]。 1924年7月の大統領選挙 (1924 Mexican general election
大統領
1925年12月には憲法27条にもとづいて外国人がメキシコの土地を所有することに制約を設け、石油産業に制約を設けた[3][2]。このためアメリカ合衆国からは共産主義者、ボリシェヴィキだと批判され、両国の対立を招いた[1]。内政では公教育の整備、中央銀行の創立[1]、軍隊の職業専門化など多くの改革をこころみた。彼は民法を改正して男女が法的に同じ権利を持つようにした[2]。
エヒードについては、オブレゴン政権の倍以上にあたる3,088,071ヘクタールを302,432世帯に分配したが、土地の分配だけでは不足であり、農業機械、灌漑施設、農薬、技術教育などの支援が必要と考えていた[2]。
彼は反カトリック的であり、メキシコ憲法の反カトリック主義的な条文(3条、5条、27条、130条)を実現するため、ソノラ州知事時代と同様にカトリック聖職者をメキシコ社会から放逐しようとした[1][3]。これによって1926年から1929年にかけてメキシコ西部および中央メキシコでクリステロ戦争が引き起こされた[1](後にカトリック教会は犠牲者25人を列聖した)。
ユルゲン・ブーヘナウ (de:Jurgen Buchenau) によると、エリアス・カリェス自身はスピリティズムの信奉者だった[4]。またマシュー・バトラーによると、エリアス・カリェス政権の閣僚にはフリーメイソンが多く、メキシコにおいてフリーメイソンは反聖職者運動において主要な役割を果たしたという[5]。
エリアス・カリェスは連続でなければ大統領の再選を認めるように憲法13条と82条を改正した。これはオブレゴンの再選を認めさせるためだったが、1928年に再選されたオブレゴンは就任前に暗殺されてしまった[1]。権力の空白からふたたびメキシコが内戦に陥ることを防ぐため、エリアス・カリェスは1929年に政権党である国民革命党(PNR, 制度的革命党の前身)を創設した[1][3][2]。 1929年から1935年までの間、エリアス・カリェスは後継の傀儡大統領を次々と挿げ替え、政界の黒幕としてメキシコを支配し続けた。エリアス・カリェスは革命の「ヘフェ・マクシモ」(Jefe Maximo, 最高司令官)と呼ばれるようになり[1]、この時代はマクシマート (Maximato
影の権力者