エヒードについては、オブレゴン政権の倍以上にあたる3,088,071ヘクタールを302,432世帯に分配したが、土地の分配だけでは不足であり、農業機械、灌漑施設、農薬、技術教育などの支援が必要と考えていた[2]。
彼は反カトリック的であり、メキシコ憲法の反カトリック主義的な条文(3条、5条、27条、130条)を実現するため、ソノラ州知事時代と同様にカトリック聖職者をメキシコ社会から放逐しようとした[1][3]。これによって1926年から1929年にかけてメキシコ西部および中央メキシコでクリステロ戦争が引き起こされた[1](後にカトリック教会は犠牲者25人を列聖した)。
ユルゲン・ブーヘナウ (de:Jurgen Buchenau) によると、エリアス・カリェス自身はスピリティズムの信奉者だった[4]。またマシュー・バトラーによると、エリアス・カリェス政権の閣僚にはフリーメイソンが多く、メキシコにおいてフリーメイソンは反聖職者運動において主要な役割を果たしたという[5]。
エリアス・カリェスは連続でなければ大統領の再選を認めるように憲法13条と82条を改正した。これはオブレゴンの再選を認めさせるためだったが、1928年に再選されたオブレゴンは就任前に暗殺されてしまった[1]。権力の空白からふたたびメキシコが内戦に陥ることを防ぐため、エリアス・カリェスは1929年に政権党である国民革命党(PNR, 制度的革命党の前身)を創設した[1][3][2]。 1929年から1935年までの間、エリアス・カリェスは後継の傀儡大統領を次々と挿げ替え、政界の黒幕としてメキシコを支配し続けた。エリアス・カリェスは革命の「ヘフェ・マクシモ」(Jefe Maximo, 最高司令官)と呼ばれるようになり[1]、この時代はマクシマート (Maximato
影の権力者
1928年7月にオブレゴンが殺された後、エミリオ・ポルテス・ヒル(英語版)が臨時大統領に就任した。1929年の大統領選挙で国民革命党のパスクアル・オルティス・ルビオ(英語版)が選出されて1930年に大統領に就任したが、エリアス・カリェスが実権を持ち続けることにに彼が批判的になると辞任されられて1932年にアベラルド・ロドリゲス(英語版)が大統領につけられた。1934年の選挙 (1934 Mexican general election) でふたたびエリアス・カリェスの支持する国民革命党のラサロ・カルデナスが当選した。
カルデナスはエリアス・カリェスがソノラ州でパンチョ・ビリャ派と戦っていたころからの配下だったが、翌1935年6月にエリアス・カリェスがカルデナスの左派的な政治を批判すると、カルデナスを擁護する労働団体などの大規模な運動が起きた。エリアス・カリェスは1936年4月にアメリカ合衆国に亡命し、サンディエゴに住んでカルデナス政権に敵対した[1]。
1944年[1][注 1]、マヌエル・アビラ・カマチョの招きに応じてメキシコに帰国した[1]。1945年にメキシコシティで死去し、ドロレスのパンテオン (Panteon de Dolores) に埋葬された[2]。1969年11月に革命記念塔に遺体が移された[2]。
脚注
注釈^ 1941年とする文献[3]、1942年とする文献[2]がある