プリンセス_プリンセス
[Wikipedia|▼Menu]
ラジオ日本『ラジカントロプス2.0』(2013年4月15日OA)において、スタジオミュージシャンの青山純が「実は僕、プリンセス プリンセスだったんですね。影武者として。」とレコーディングでのドラム演奏を担当していたことを告白している[9]

来歴
デビュー前

1983年

TDKレコード主催「TDKレディスバンドオーディション」が開催される(応募条件は15歳から18歳の容姿端麗な女性[10])。応募総数は1400人あまり。書類選考及びデモテープ審査で25人に絞られ、季刊音楽雑誌「ヤングセンス1983年春号」にその詳細が掲載される[11]

2月20日、各パートごとの最終オーディションが行われ、5人が選出される。

4月から、西日暮里東京都荒川区)で合宿生活を開始する。合宿開始当初は、同じ事務所に所属していた木之内美穂と共に合宿生活をしていた。この合宿生活は2年4か月にも及んだ[12]

当初のバンド名は「赤坂小町(あかさかこまち)」[13][14][15]。このバンド名の由来については、「当時のTDKレコードの所在地であった『赤坂』から」、「『漢字4文字のバンド名をつけてほしい』と依頼されたある雑誌編集者によって名付けられた」、「雑誌上での公募で付けられた」など多くの説がある。

5月29日、銀座山野ホールで初ライブを行う。


1984年

3月21日、TDKレコードからシングル「放課後授業」でデビュー。この頃、奥居は「ヴォーカル&ベース」から「ヴォーカル&ギター」へ、渡辺は「ギター」から「ベース」へ、それぞれパート変更する。パート変更の時期は、富田によると「放課後授業」のリリース前[16]、渡辺によると同シングルのリリース後[17]とされており、ライブ年表によると、「放課後授業」発売の約1か月半後の1984年5月8日のシャープ会館イベントがパートチェンジ後の初ライブとされている[18]


1985年

事務所が与えるアイドル的な仕事に違和感を覚えたことや音楽性の違いから、所属事務所をTDKレコードから音楽座(ミュージカル劇団音楽座とは無関係)へと移籍し、バンド名を「JULIAN MAMA(ジュリアン・ママ)」へ改名する。JULIAN MAMA時代はシングル、アルバムのリリースは無かった。


デビュー後

1986年

5月、バンド名を「PRINCESS PRINCESS」へと改名し(名づけ親は
ムーンライダーズ岡田徹[19]、ミニアルバム『Kissで犯罪(クライム)』でCBSソニー(現:ソニー・ミュージックエンタテインメント)から再デビュー。この『Kissで犯罪』のプロモーションビデオを事務所関係者が見たことがきっかけで、シンコーミュージックが彼女らへ接触し、移籍交渉を開始することになる。

8月、シンコーミュージックで移籍のためのオーディションが行われるが、この時点では移籍には至らなかった。音楽座サイドがプリプリを手放そうとしなかったことや、オーディションを見た社員の反応があまり良くなかったことが理由であったが、当時シンコーミュージックの社員で、後に彼女らのマネージャーになった「市ヤン」こと市村恵美子は、彼女らのライブを生で見て「このバンドはいける」と思い、社長の説得にあたった。

11月、所属事務所であった音楽座との意見の相違などもあり、音楽座との話し合いをへて音楽座からシンコーミュージックへ移籍する[20]


1987年

4月、ファーストシングル「恋はバランス」が発売される。この曲は、作詞は中山が担当したが、作曲は鈴木キサブローによるものだった。当時メンバー内では、部外者が作曲した作品をリリースすることについての抵抗がかなりあったらしく、以後はメンバー自身が作詞・作曲した曲をリリースすることにこだわり続けた。


1988年

3枚目のシングル「MY WILL」が、スポーツ用品店「ヴィクトリア」のCMソングに起用されたことをきっかけとして注目を集め、フジテレビ夜のヒットスタジオDELUXEに初出演を果たす。初登場時は電飾を使ったセットが用意され、これは彼女らに余計に緊張を与えた。またこの番組は、渡辺にとって昔からの憧れの番組であり、また「何度出ても緊張する番組だった」と後に語っている[21]

2月、後にバンドの代表曲の1つとなる4枚目のシングル「19 GROWING UP -ode to my buddy-」をリリースする。この時期からたびたびテレビドラマやCMのタイアップに起用されるようになり、バンドの知名度とCD売上が上昇していく。

4月、結成当初から目標の一つとしていた渋谷公会堂ライブを行う。チケットは発売開始からわずか2時間で完売し、これを聞いたマネージャーの市村はメンバーより先に泣いたというエピソードがある。この頃からライブ会場をライブハウスからホールへと移行させていく。

5月、5枚目のシングル「GO AWAY BOY」リリース。資生堂夏のキャンペーンソングに起用される。続く6枚目のシングル「GET CRAZY!」も月9テレビドラマ『君が嘘をついた』の主題歌に起用された。

11月、4枚目のアルバム『LET'S GET CRAZY』リリース。収録曲の「M」は後にリリースされるシングル「Diamonds」のカップリング曲にもなり、バンドを代表する曲の一つとなる。


1989年

1月、女性だけのバンドとして初の日本武道館公演を行う。翌年から正月に公演が行われるようになり、以後1996年まで毎年行われた。

4月、7枚目のシングル「Diamonds」をリリース。オリコンチャート1位を獲得し、ミリオンセラーを記録する。同曲の大ヒットとともに一躍トップアーティストの仲間入りを果たし、人気は頂点に達する。同曲では第22回日本有線大賞も受賞し、NHK紅白歌合戦からも「Diamonds」での出演のオファーが来たが、スケジュール上の都合で辞退する。

このブレイクをきっかけに「Diamonds」発売以前にリリースされていた曲も注目されるようになる。7月、既にEP盤として発売されていた2ndシングル「世界でいちばん熱い夏」がCD化され、オリコンチャートで1位を獲得。カップリング曲の「世界でいちばん熱い夏(平成レコーディング)」は、ライブで演奏していたアレンジをレコーディングしたものである。

6月1日発売のユニコーンのアルバム「服部」に奥居がPSY・SCHAKAと共にコーラスで参加。

8月、西武球場で初のスタジアムライブを含むライブ「夏祭りだよ! 全員集合」を行う。

11月、5thアルバム『LOVERS』リリース、オリコン・アルバムチャートで初の1位を獲得し、ミリオンセラーとなる。

夜のヒットスタジオ騒動 1989年10月18日、生放送の『夜のヒットスタジオSUPER』第1回目で、新しく司会として起用された加賀まりこが、奥居に対して「ブタ」「生理中なんじゃないの」という発言をする。これに対し奥居は、同日番組終了後に生放送されたTBSラジオ『ポップン・ルージュ』で加賀の言動に激怒する。メンバーの恋人の存在が写真週刊誌に掲載された直後の同年11月15日出演時では、生放送中に加賀がそのことに打ち合わせなしで言及し、奥居がその夜の『ポップン・ルージュ』内で再び激怒。その後メンバー全員が『夜ヒット』への出演を拒否する事態に発展し、その後同番組に出演することはなかった。だがレギュラー放送終了後、1993年3月31日に放送された特番では病欠中だった今野を除くメンバー4人で生出演し、また1994年10月12日放送の特番には「夜ヒットの思い出」として奥居がVTRでコメント出演をしている。




1990年

4月から初の全都道府県ツアー「PANIC TOUR'90 パレードしようよ!!」を行う。全56か所、62本のライブを行った。9thシングル「OH YEAH!」はこの全都道府県ツアーの応援歌として作られた。

12月、6枚目のアルバム『PRINCESS PRINCESS』リリース。「メンバーそれぞれの個性を表に出した」ということで、このタイトルが付けられた。このアルバムには、奥居以外が初めてボーカルをとった今野、中山のソロ曲が収録されている。


1991年

12月、8枚目のアルバム『DOLLS IN ACTION』をリリース。

同年後半、奥居がトレードマークであったロングソバージュの髪をバッサリ切ってイメージチェンジを図った。


1992年

5月、今野が突発性難聴のため休養する[22]。ライブツアー中だったため、キーボードには代行が立った。順調に回復し6月には復帰したが、突発性難聴は後遺症が残ることがあったり、時には改善不能な場合もあるため、病状次第では今野の離脱やメンバーの交代、最悪バンドの解散にまで至る可能性があった状態にあった。事実、後述の再結成時に、今野は「その時の影響で現在も片耳が聞こえない」ことを明かした[23]
次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:107 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef