メジャーレーベルは、こぞってこの才能に溢れた少年との契約を望んだ。そして、1977年に数社の入札の結果、ワーナー・ブラザースと契約。19歳の少年としては異例の高額な契約金とセルフ・プロデュースの権利を同時に獲得する[13]。 1978年4月、プリンスはたった一人でデビューアルバム 『For You』 を作り上げ、そのメジャーキャリアをスタートさせる。ビルボードチャートは163位に終わるものの、シングルカットされた「Soft and Wet」はR&Bチャートを賑わせた。 1979年、バックバンドを集めるものの、やはりアルバム作成はほぼひとりでやってのけ、セカンドアルバム『Prince(邦題:愛のペガサス)』を発表。キャッチーな曲として「Why You Wanna Treat Me So Bad」、「I Wanna Be Your Lover」がR&Bチャートでヒットとなった。なお「I Wanna Be Your Lover」は全米シングルチャートでも最高位11位にランクされる大ヒットとなり、一躍その名を世間に知らしめることとなる。日本で発売されたアルバムはこれが最初のものとなる。 1980年には『Dirty Mind』を発表。本来発表するつもりのないデモテープであったが、マネージャーの勧めで発表することになった。また、「Head」と「Sister」の詞が性的に露骨過ぎるという理由で放送禁止曲になることで話題を集めた。しかし、そのためにセールス的には前作を下回ってしまった。 1981年には『Controversy(邦題:戦慄の貴公子)』を発表。同名シングルがソウル・チャートにランクインし、またビデオが放映されるなど、知名度が大きく上昇した。この時期に、ローリング・ストーンズの前座としてツアーに帯同していたが、公演によっては、ビール瓶やキャベツ等を投げつけられるなどストーンズ目当ての客からのブーイングを受けた。当時、ストーンズの楽屋を訪れたデヴィッド・ボウイが、トイレで泣いているプリンスの姿を見掛けたため、以後の自身のツアーでは前座ミュージシャンをつけることをやめたというエピソードが残っている。当時、オープニングアクトに起用したミック・ジャガーは、「お前達はプリンスがどれだけ凄いか分からないだろう」と言ったと言われている。 1982年頃から、プリンスはバックバンドをザ・レヴォリューションと名付けた。それに伴い、アーティスト表記もプリンス単独名義からプリンス・アンド・ザ・レヴォリューションに変わった。レヴォリューションは、メンバーを若干変動させつつ1986年まで存続する。それから1990年までは、特にバックバンドに呼称を与えない時期が続く。 2枚組アルバム『1999』(1982)をリリースしたプリンスは、ついにブレイクを迎える。全米で400万枚を売り上げたこのアルバムからは「Little Red Corvette」(6位)、「1999」(12位)、「Delirious」(8位)がシングルカットされ、全米チャートで初のトップ10入りを遂げた。同時に MTV ではじめてミュージックビデオが放映された黒人アーティストとして、マイケル・ジャクソンと共に名を連ねることになる。なお、本作のCDは1枚で発売されたため、収録時間の都合上、1980年代から1990年代にかけて発売されていたCDからは「D.M.S.R.」が削られている。パープル・レインのロゴ 1984年、自伝的映画『プリンス/パープル・レイン』で映画初主演、そのサウンドトラックとして『Purple Rain』が発表され大ヒットとなった。発表初週に100万枚を売り上げたこのアルバムは、ビルボードチャートのトップに実に24週間も居座りつづけた。シングルカットされた「When Doves Cry」、「Let's Go Crazy」の2曲がシングルチャートで1位となり、プリンスは全米でのボックスオフィス、アルバムチャート、シングルチャートですべて1位を獲得するという成果を達成した。なお、本作からは他に「Purple Rain」(2位)、「I Would Die 4 U」(8位)、「Take Me With U」(25位)がシングルカットされている。また、「When Doves Cry」は年間シングルチャートでも1位を獲得している。 プリンスの自伝映画として製作されたこの映画は、6800万ドルの興行収入を得て週間ボックスオフィスで1位、年間で11位という堂々たる成績を収めている。なお、同年の第57回アカデミー賞で歌曲・編曲賞を受賞している。オスカー像は、後にプリンスが設立したペイズリー・パーク・スタジオの一角に大事に飾られているという。
活動初期(1978?1980)
全盛期(1981?1989)