プリンス_(ミュージシャン)
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代表曲として、「パープル・レイン」「戦慄の貴公子(英語版)」「KISS」「サイン・オブ・ザ・タイムズ(英語版)」「バットダンス(英語版)」「セクシーMF(英語版)」「アイ・ヘイト・ユー(英語版)」「1999(英語版)」「リトル・レッド・コルヴェット(英語版)」「ビートに抱かれて」「レッツ・ゴー・クレイジー(英語版)」「ラズベリー・ベレー(英語版)」「ウォナ・ビー・ユア・ラヴァー(英語版)」「ソフト・アンド・ウェット」などがある。

2010年発表の「ローリング・ストーンの選んだ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第27位[9]。「ローリング・ストーンの選んだ史上最も過小評価されているギタリスト」において第1位。
概要

プリンスは1978年のデビュー以来、アフロアメリカンの音楽白人の音楽を融合した音楽スタイルで、数多くのヒットを放ってきた。ジョニ・ミッチェル[注 1]はプリンスについて「彼は芸術家として駆り立てられて音楽をやっている。形式やヒットでなく創造が動機となっている」と語っている[10]。ジョニは、プリンスが若き日に送ってきたファンレターに「Uや4があった」ことで彼を覚えていたという。プリンスがもっとも影響を受けてきたミュージシャンは、ジェームス・ブラウンスライ・ストーンジョージ・クリントン[注 2]Pファンクなどである。この先、何十枚でもアルバムを発表できるだけの楽曲のストックがあるといわれ、また、どれほど優れた曲であろうとも「アルバムの流れから外れた曲は収録しない」という主義から、多くの海賊版発売の被害にもあっている。

デビュー以来、作詞・作曲・歌唱・演奏・プロデュースの全てを自ら行うスタイルを貫き、「27種類以上の楽器を演奏」できる。さらにジェームズ・ブラウンのパフォーマンスを引き継いだステップやスプリット(股割り)、マイクスタンドを用いた様々な技などのダンスパフォーマンスも披露していたが、後に楽器による生演奏と歌唱を中心とした「リアルミュージック・バイ・リアルミュージシャンズ」を掲げたライブになっていた。

曲のタイトル・歌詞の特徴として、to 「2」、for 「4」、you 「U」、are「R」など同音異字を用い、I は「eye」の表象文字で記載されている。イメージカラーは主に「」。これはアルバム『Purple Rain』発売前からのもの。キャリア初期からセクシャルなイメージが強く、「I Wanna Be Your Lover」のミュージックビデオビキニパンツレッグウォーマーという衣装で出たり、アルバム『Lovesexy』のジャケット問題(下記)、さらには臀部が全開のパンツでパフォーマンスしたりと、様々な逸話がある。また、アルバム『Purple Rain』は、収録曲「Darling Nikki」の露骨に卑猥な歌詞により、ティッパー・ゴアによる「問題のある内容のレコード」に貼るウォーニング・ステッカーの第一号となった[注 3]

改宗を機に「古くからのファンも家庭を持つ年齢になったから」とセクシャル路線をやめることを宣言した(後はマドンナに任せるとも言っていた)。ワーナーとの契約解消以降はアルバムの販売なども特別な手法を取った。その才能への敬意と Prince という名に因み、日本のファンは彼を「殿下」と呼んできた。

ローリング・ストーン誌の2007年11月号の企画で、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も過小評価されている25人のギタリスト」において第1位、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第30位[11]、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第27位、2011年に「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において第33位、「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第61位[12]にそれぞれ選ばれている。
経歴
生い立ち?デビューまで(1958?1977)

プリンス・ロジャーズ・ネルソンは、1958年6月7日午後6時17分、ミネソタ州ミネアポリスのマウント・シナイ病院で生まれた[13]。ジャズミュージシャンを両親に持ち、音楽とともに育った[13]。その少年期はさまざまな逸話に包まれている(その幾つかはプリンス本人によって話題作りのために広められた)。

その最たるものが「プリンスの父親は黒人で母親が白人である」ということである。これは自伝映画『プリンス/パープル・レイン』でも使われた設定であるが実際は両親ともに黒人であり、本人によると「父方にはイタリア系の血が、母方にはネイティブ・アメリカンの血が入っている」とのこと。

ジャズ・ピアニストだった父親のジョン・L・ネルソン(1916?2001)は1960年代後半までプリンス・ロジャーという芸名でプリンス・ロジャー・トリオというバンドを組んでいたことから息子にその名を付けた。母親のマティ(1933?2002)は17歳年下のジャズ歌手だった。プリンスが生まれたとき、ジョンには前妻との間に4人の子があり、プリンス誕生と同時期にも前妻との間に男児デュアンが生れ、その後マティとの間に女児ティカ(プリンスの実妹)をもうけた[13]。幼少期のプリンスにはてんかんの持病があり、しばしば発作に見舞われた。

両親はプリンスが子供の頃の1966年に離婚し、父親が家を出て行った。母親は再婚し、継父は10歳のプリンスをジェームス・ブラウンのコンサートに連れて行ってステージに上げたという。後のプリンスの音楽への影響を作ったことはあったが、プリンスは継父との折り合いが上手くいかず、家出を繰り返すことになる[13]。実父ジョン・L・ネルソンはプリンスに大きな影響を与えており、楽曲のいくつかにはその名前がクレジットされている。

ジュニアハイスクール時代に、友人や従兄弟らと共にバンドを結成したプリンスは長じるにつれ頭角を現す。この時期に参加していた「94EAST」というバンドの音源は後年に発掘されることになる[13]シンセサイザーを主体としたファンクミュージック、いわゆるミネアポリス・サウンドと呼ばれるムーブメントの中心的存在として注目を受けるようになる。

メジャーレーベルは、こぞってこの才能に溢れた少年との契約を望んだ。そして、1977年に数社の入札の結果、ワーナー・ブラザースと契約。19歳の少年としては異例の高額な契約金とセルフ・プロデュースの権利を同時に獲得する[13]
活動初期(1978?1980)

1978年4月、プリンスはたった一人でデビューアルバム 『For You』 を作り上げ、そのメジャーキャリアをスタートさせる。ビルボードチャートは163位に終わるものの、シングルカットされた「Soft and Wet」はR&Bチャートを賑わせた。

1979年、バックバンドを集めるものの、やはりアルバム作成はほぼひとりでやってのけ、セカンドアルバム『Prince(邦題:愛のペガサス)』を発表。キャッチーな曲として「Why You Wanna Treat Me So Bad」、「I Wanna Be Your Lover」がR&Bチャートでヒットとなった。なお「I Wanna Be Your Lover」は全米シングルチャートでも最高位11位にランクされる大ヒットとなり、一躍その名を世間に知らしめることとなる。日本で発売されたアルバムはこれが最初のものとなる。

1980年には『Dirty Mind』を発表。本来発表するつもりのないデモテープであったが、マネージャーの勧めで発表することになった。また、「Head」と「Sister」の詞が性的に露骨過ぎるという理由で放送禁止曲になることで話題を集めた。しかし、そのためにセールス的には前作を下回ってしまった。
全盛期(1981?1989)


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