プリンキパトゥス
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よって五賢帝最後のマルクス・アウレリウス・アントニヌスに実子コンモドゥスが存在したこと、彼が非常な暴君であったことによって、五賢帝時代は終焉を迎える。
軍人皇帝時代

いわゆる「3世紀の危機」と呼ばれる、ゲルマン民族サーサーン朝など絶えず外敵が侵入した時代において、ローマ皇帝は軍人としての有能さが求められた。有能な皇帝を選ぶことができるのは戦場にいる兵士であり、元老院は兵士が擁立した皇帝を追認する事しかできなかった。だが多くの皇帝が戦死、事故死、暗殺などで殺され、あるいは複数の皇帝候補が擁立されて帝位を争うことになり、235年から284年の50年ほどで、20人の皇帝が交代した。この時代を軍人皇帝時代と呼ぶ。この時代のいわゆる軍人皇帝は、さながら傭兵部隊の隊長のようなものであり、内政をみる余裕の無かった皇帝も数多い。
専制君主制

284年に即位したディオクレティアヌスは、軍人皇帝時代を収拾すべく、改革を行った。これ以降は「アウグストゥス」の称号は実質的な皇帝の称号となり、また「カエサル」の称号は副帝(次期皇帝)を表す称号となった。従来のローマ皇帝は建前としての共和制を遵守していたが、これ以降のローマ帝国は建前も実質も共に君主制に移行したとされ、これ以降の体制を歴史学上の用語で「専制君主制」(ドミナートゥス)と呼んで、いわゆる元首政は終焉したと考えられてきた。ただし、元首政の残滓はその後も継承されており、たとえば中世の東ローマ帝国においても「市民と軍隊の信任によって選ばれたローマ皇帝」という建前は生きていた。

古代末期に関する研究が進んだ今日では、元首政に代わる専制君主制なるものは存在しなかったと考えられるようになってきており、「専制君主制」という呼称は使われなくなってきている[3]
脚注^ 同盟市戦争を経て、ローマ連合加盟諸都市の市民にもローマ市民権が付与されていたが、当然ながら首都ローマ在住の市民以外は、市民集会に出席して執政官選挙に投票することは不可能である。
^ ただしそれだけでなく、かつてのグラックス兄弟と同様の農地改革を実行して、貴族層の怒りを買ったのも原因である。
^ ベルナール・レミィ 『ディオクレティアヌスと四帝統治』 大清水裕訳、白水社、2010年。

関連項目

王政ローマ

元老院 (ローマ)

ドミナートゥス

大統領制

半大統領制

典拠管理データベース: 国立図書館

ドイツ


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