1968年8月22日、チェコスロヴァキア共産党中央委員会第14回党大会が急遽開催された。この党大会では、ソ連軍の侵攻を非難し、占領軍の国外退去および逮捕された国の指導者の帰国を要求するとともに、ドゥプチェクによる改革案を中断せざるを得なくなったことに対する不本意が表明された。なお、アロイス・インドラが結成した革命労農政府について、ルドヴィーク・スヴォボダは承認しなかった。1968年8月23日、ルドヴィーク・スヴォボダはモスクワへ向かった[22]。アレクシイ・コスギン(Алексей Косыгин)が、ヴヌーカヴァ国際空港でスヴォボダを出迎えた。グスターフ・フサーク(Gustav Husak)、マルティン・ズール、ヴァスィル・ビリャーク(Vasil Bilak)、アロイス・インドラ
(チェコ語版)も付き従い、モスクワに到着した[85]。1968年8月23日から8月27日にかけて、クレムリンで交渉が行われた。チェコスロヴァキアの代表団は、ルドヴィーク・スヴォボダ、アレクサンデル・ドゥプチェク、ヨゼフ・スムルコフスキー、オルドジフ・チェルニーク、ヴァスィル・ビリャーク、フランティシェク・バルビーレック(チェコ語版)、ヤン・ピレール(チェコ語版)、エミール・リゴ(チェコ語版)、ヨゼフ・シュパチェック(チェコ語版)、オルドジフ・シュヴェストカ(チェコ語版)、ミロシュ・ヤケーシュ(チェコ語版)、ヨゼフ・レナールト(チェコ語版)、ボフミル・シモン(チェコ語版)、グスターフ・フサーク、アロイス・インドラ、ズデニェック・ムリナーシュ(Zden?k Mlyna?)、ボフスラフ・クチェラ(チェコ語版)、ヴラディミール・コウツキー(チェコ語版)が出席した[23]。ソ連の代表団は、レオニード・ブレジネフ、アレクシイ・コスイギン、ミコラ・ピドホルヌイー、ゲンナジー・ヴォロノフ(Генна?дий Во?ронов)、アンドレイ・キリレンコ(Андре?й Кириле?нко)、コンスタンチン・カトシェフ(ロシア語版)、ドミートリー・ポリャンスキー(Дми?трий Поля?нский)、ミハイル・スースロフ、アレクサンドル・シェレーピン(Алекса?ндр Шеле?пин)、ボリス・ポノマリョフ、アンドレイ・グレチコ、アンドレイ・グロムイコが出席した[23]。ルドヴィーク・スヴォボダは、囚われの身となったドゥプチェクらの釈放を要求した[85]。スヴォボダは占領軍を撤退させようとしたが、抑留された政治家を解放するにあたり、チェコスロヴァキアの事実上の降伏を意味するモスクワ協定(スロバキア語版)に署名することとなった。この協定により、ソ連軍の駐留が合法化し、チェコスロヴァキアはソ連に服従する形となった。チェコスロヴァキアの代表団は、「社会主義からの逸脱の脅威」が無くなるまで、ソ連軍の駐留に同意せざるを得なくなった。モスクワ協定は、チェコスロヴァキアにおける「正常化(スロバキア語版)」の始まりを意味した。ポーランド、ブルガリア、ハンガリーの軍隊は、1968年11月までにチェコスロヴァキアの領土から去ったが、ソ連軍は1991年まで残った。占領軍を撤退させる最後の機会は、連合国に中立宣言を求めることであったが、1968年8月27日、ソ連は連合国安全保障理事会に対し、「これ以上の介入交渉は無意味である」と通告した[110]。1968年9月13日、 チェコスロヴァキアの議会は、集会実施の権利の制限、報道規制、検閲の導入を発表した。10月16日、アレクサンデル・ドゥプチェク、グスターフ・フサーク、オルドジフ・チェルニークは、チェコスロヴァキアの領土内におけるソ連軍の駐留に関する協定に署名した。10月18日、チェコスロヴァキア議会は、ワルシャワ条約機構軍によるチェコスロヴァキア内の領土への一時的な駐留に関する協定への署名を可決した。1969年4月17日、チェコ共和国共産党中央委員会の会議にて、アレクサンデル・ドゥプチェクはチェコスロヴァキア第一書記を辞任し、その後任としてグスターフ・フサークが選出された[56]。
1968年8月27日、チェコスロヴァキアの外務大臣、イジー・ハーイェク(Ji?i Hajek)は、連合国安全保障理事会の議場で演説を行い、ソ連による侵攻と占領を非難した[111]。