プラハの春
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1968年8月21日の早朝までに、チェコスロヴァキアはソ連軍に占領された[21]。アレクサンデル・ドゥプチェクとその仲間たちは8月21日の朝に逮捕され、モスクワに連行された。プラハに戻されたのち、ドゥプチェクは1969年4月に共産党第一書記を辞任した[1]1969年4月17日、アレクサンデル・ドゥプチェクの後任として、グスターフ・フサーク(Gustav Husak)がチェコスロヴァキアの指導者に就任した[22]

1968年8月23日から8月26日にかけて、モスクワにて、チェコスロヴァキアの代表とソ連の代表が会談を行い、8月27日に共同声明を発表し[23]、モスクワ協定(スロバキア語版)に署名し[23]。ソ連軍の駐留を合法化し、1991年6月までソ連軍はチェコスロヴァキアに駐留し続けた。のちに、1991年6月30日までにチェコスロヴァキアの領土からソ連軍を撤退させる協定が締結され、ワルシャワ条約機構は1991年7月1日をもって失効し、消滅した[24]

チェコの歴史家、プロコップ・トメック(チェコ語版)とイヴォ・ペイチョフ(チェコ語版)は、ソ連による軍事侵攻の犠牲者について、当初は「108人」と計上していたが、その後、「137人」に修正した[25]。プロコップ・トメックによれば、ソ連軍は、侵略の初日だけで50人を射殺したという[26]。この軍事侵攻によって500人が重傷を負った[27]。ソ連兵に銃で撃たれ、その際にできた怪我が原因で死亡した者たちも出た[27]

この軍事侵攻に対し、中華人民共和国はソ連を非難した一方で、北朝鮮北ヴェトナムモンゴル人民共和国はソ連への支持を表明した。ユーゴスラヴィアルーマニアは、チェコスロヴァキアに対して同情的な反応を見せ、ルーマニア、ユーゴスラヴィア、チェコスロヴァキアの間で、特別な関係が構築され始めた。ソ連から独立したいという共通の想いが、この同盟の締結に繋がった[28]。チェコスロヴァキアへの軍事侵攻を受けて、ルーマニアとユーゴスラヴィアは自国の防衛を強化する措置を講じた。ルーマニアは「ルーマニアの領土内で軍事演習を実施する」というソ連の圧力に抵抗し、撥無に成功した[28]。ルーマニアとアルバニアは、この侵攻に対する軍隊の派遣を拒否した。1968年8月24日、ユーゴスラヴィアとルーマニアは、チェコスロヴァキアへの軍事侵攻を非難する共同宣言を正式に発表した[22]。アルバニアは1968年9月13日にワルシャワ条約機構から離脱するに至った[19]

1993年ボリス・エリツィンはプラハを訪問し、「チェコスロヴァキアへの侵略は許されない行為だ」と述べた一方で、「その責任はソ連にあり、民主主義のロシアには責任は無い」と附言した[29]2006年にチェコを訪問したウラジーミル・プーチンは、「率直に申し上げるなら、ソ連は現在のロシアとは何の関係も無い」とした一方で、「チェコスロヴァキアへの侵略に対するロシアの道義的責任はあります」と述べた[30]

2019年12月5日、チェコ共和国の議会は、8月21日を「チェコスロヴァキアへの侵攻とその後の占領で命を落とした犠牲者を追悼する日」と認定する法律案を承認した[31]

恒例のプラハの春音楽祭の頃に始まったために「プラハの春」と呼ばれた[3]
背景
アントニーン・ノヴォトニーの辞任アントニーン・ノヴォトニーアレクサンデル・ドゥプチェク(1968年8月)

1960年代チェコスロヴァキア社会主義共和国の経済は低迷状態にあった[32][33]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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