同年8月20日にソ連がワルシャワ条約機構軍を率いてチェコスロヴァキアに侵攻したことで終了した[2]。 1967年12月に開催されたチェコ共和国党中央委員会本会議が「プラハの春」の始原であり、1968年1月5日にアレクサンデル・ドゥプチェクがチェコ共和国共産党中央委員会第一書記
概要
1968年8月20日の深夜、ワルシャワ条約機構に加盟していた国々で構成された軍事部隊がチェコスロヴァキア社会主義共和国の領土を越えてなだれ込んだ。ソ連が指揮し、主導したワルシャワ条約機構の軍隊が、ドゥプチェクが実施しようとした自由化の改革を阻止・鎮圧するため、チェコスロヴァキアに侵攻した[1]。この軍事侵攻の作戦名は「ドナウ作戦」(Oпера?ция ≪Дуна?й≫)と名付けられた[19]。1968年8月20日午後11時、「ドナウ作戦」が開始された[19]。ソ連軍においては、陸軍大将のイヴァン・グリゴーリエヴィチ・パヴロフスキー(ロシア語版)がこの作戦の指揮を取った[20]。ソ連はワルシャワ条約機構の50万人規模の軍隊と戦車を送り込み、チェコスロヴァキアを占領した。ソ連軍に加えて、ポーランド軍、ブルガリア軍、ハンガリー軍も侵攻に加わった[1]。大統領のルドヴィーク・スヴォボダ(Ludvik Svoboda)と国防大臣のマルティン・ズール(Martin Dzur)の命令により、チェコスロヴァキアの軍隊は戦闘に介入しなかった。1968年8月21日の早朝までに、チェコスロヴァキアはソ連軍に占領された[21]。アレクサンデル・ドゥプチェクとその仲間たちは8月21日の朝に逮捕され、モスクワに連行された。プラハに戻されたのち、ドゥプチェクは1969年4月に共産党第一書記を辞任した[1]。1969年4月17日、アレクサンデル・ドゥプチェクの後任として、グスターフ・フサーク(Gustav Husak)がチェコスロヴァキアの指導者に就任した[22]。
1968年8月23日から8月26日にかけて、モスクワにて、チェコスロヴァキアの代表とソ連の代表が会談を行い、8月27日に共同声明を発表し[23]、モスクワ協定(スロバキア語版)に署名し[23]。ソ連軍の駐留を合法化し、1991年6月までソ連軍はチェコスロヴァキアに駐留し続けた。のちに、1991年6月30日までにチェコスロヴァキアの領土からソ連軍を撤退させる協定が締結され、ワルシャワ条約機構は1991年7月1日をもって失効し、消滅した[24]。