プラハの春
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

1968年1月、党中央委員会は、アントニーン・ノヴォトニーに対する不信任決議案を可決し[36]、ノヴォトニーはチェコスロヴァキア共産党中央委員会第一書記(1953年から1971年までは「チェコ共和国共産党中央委員会第一書記」と呼ばれた)の役職を解任された[37]1968年1月3日から1月5日にかけて、チェコ共和国共産党中央委員会総会は、チェコ共和国共産党中央委員会第一書記と共和国大統領の職務を分離する趣旨を決定した[38]。アントニーン・ノヴォトニーが共産党中央委員会第一書記の職を解任されたことに伴い、1968年1月5日、ノヴォトニーの後任として、アレクサンデル・ドゥプチェクが党中央委員会第一書記(チェコ語版)に就任した[39][40]1968年3月22日、アントニーン・ノヴォトニーは大統領の役職も辞任し、1968年3月30日ルドヴィーク・スヴォボダ(Ludvik Svoboda)がチェコスロヴァキアの大統領に就任した[39]。チェコスロヴァキア社会主義共和国国民議会(チェコ語版)の議長にはヨゼフ・スムルコフスキー(Josef Smrkovsky)が就任した。1968年4月6日、ヨゼフ・レナールト(チェコ語版)が首相を辞任し[39]、その後任として、オルドジフ・チェルニーク(Old?ich ?ernik)が就任した。
「人間の顔をした社会主義」詳細は「人間の顔をした社会主義」および「二千語宣言」を参照

1956年2月、ソ連共産党第20回党大会が開催された。これに登場したニキータ・フルシチョフが行ったスターリン批判により、ヨシフ・スターリンの時代に見られた圧制、法律違反、粛清の恐怖、罪無き人々が大量に殺された事実が暴露された[41]。モスクワにある政治大学で学んでいたドゥプチェクは、これらの出来事について級友と体験・共有し、スターリンに対する批判的な見方に共感を覚えた[42]。モスクワにて、スターリンの犠牲となった者たちの社会復帰や名誉回復を目撃したドゥプチェクは、1951年から1953年にかけて迫害されたスロヴァキアの共産主義者の社会復帰を推進した。スターリンによる粛清の犠牲となった者たちの社会復帰や名誉回復を目指すドラホミール・コルデル(チェコ語版)は、コルデル委員会(スロバキア語版)の委員長を務めた。ドゥプチェクは1962年にこの委員会の設立を支持し、その委員の一人として名を連ねた。コルデル委員会は、「共産主義者に対する裁判は、捏造されたものであり、違法である」との結論を下した[43]。コルデル委員会で出された決議に基づき、ドゥプチェクは1950年代に迫害されたグスターフ・フサークを始め、スロヴァキアの共産主義者たちの社会復帰を主張した[38]1952年11月に行われたスラーンスキー裁判(英語版)で死刑判決を受けて殺されたルドルフ・スラーンスキー(Rudolf Slansky)を含め、400人以上の共産主義者が名誉回復となった。スラーンスキー裁判は、スターリンの圧力のもとで開催されたでっちあげの政治裁判であった。

ソ連共産党第20回党大会でフルシチョフが展開したスターリン批判を受けて、ドゥプチェクとその仲間たちは、ソ連およびスターリニズムによる社会主義様式に対する認識について「一貫性は無く、体系的でもなかったが、世界において画期的な出来事であった」と述べた[41]

ノヴォトニーの辞任に伴い、チェコ共和国共産党中央委員会第一書記に就任したドゥプチェクは、「芸術的、科学的創造性を阻害するものはすべて取り除く必要がある」[36]、「社会主義が勝利を収めたのち、社会の変革が始まる」と宣言した。これは「人間の顔をした社会主義」(Socialismus s lidskou tva?i)と呼ばれ、政治や経済における自由化計画の開始であった。その中には、消費者産業に有利な経済の自由化のみならず、報道の自由、表現の自由、移動の自由、宗教の自由、複数政党制の導入も含まれ、ドゥプチェクは国の政治体制の改革を推進しようとした。「人間の顔をした社会主義」なる用語は、チェコの社会学者および哲学者、ラドヴァン・リヒタ(チェコ語版)が初めて提唱した[44]。「プラハの春」は、「国民にある種の自由を提供しよう」という政策であった[18]

1968年3月4日検閲が廃止された。言論の自由はもちろん、集会を実施する自由も認められた[45]1968年6月26日の「法令第84号」に基づき、チェコの歴史において、検閲は初めて廃止となった。当時のチェコにおいて、少なくとも一年間は、報道、無線放送、テレビ放送は検閲の対象外であった。

1968年4月5日、チェコ共和国共産党中央委員会は、「チェコ共和国共産党行動計画(チェコ語版)」と題した政治綱領文書を発表した。党は、共産主義の「かつての異常」を浄化し、「我が国の状況と流儀に見合った形でこの国に社会主義を構築する」と述べ、経済、政治、社会的側面の観点から社会主義制度を改革する試みの概念を示した。なお、「『共産党の指導的役割」』は維持される」ことになった。この政治綱領には、「言論、報道、集会、宗教行事・儀式の自由を保障する」「企業の独立性を高め、兌換通貨を造り、民間事業を復活させ、西側諸国との貿易を拡大するための広範な経済改革を実施する」「独立した司法機関を設置する」「1949年から1954年にかけて不当に起訴された全ての人々の完全かつ公正な更生と、更生の影響を受けた人々に対する『道徳的、個人的および経済的補償』を実施する」「過去の迫害に関与した者たちについては、国の社会的および政治生活における重要な役職から罷免する」といった内容が盛り込まれた[46]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:271 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef