プラハの春
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避難民の人数は30万人に達した[1]

死者137人

プラハの春(プラハのはる、チェコ語: Pra?ske jaro〔プラシュスケー・ヤロ〕、スロバキア語: Pra?ska jar〔プラシュスカー・ヤール〕、ロシア語: Пражская Весна〔プラーシュスカヤ・ヴェスナ〕、英語: Prague Spring)とは、1968年チェコスロヴァキアで、アレクサンデル・ドゥプチェクの下で行われた短期間の経済的・政治的自由化[2]民主化のことを指す[3][4][5][6][7][8][9][10][11][12][13][14][15][16][17]

同年8月20日ソ連ワルシャワ条約機構軍を率いてチェコスロヴァキアに侵攻したことで終了した[2]
概要

1967年12月に開催されたチェコ共和国党中央委員会本会議が「プラハの春」の始原であり、1968年1月5日アレクサンデル・ドゥプチェクがチェコ共和国共産党中央委員会第一書記(チェコ語版)(1953年から1971年までは「チェコ共和国共産党中央委員会第一書記」と呼ばれた)に選出されてから本格的に始まった。ドゥプチェクによる改革は、経済における一部の地方分権化と民主化を実施し、それによってチェコスロヴァキア国民に権利を付与することを目的としていた。報道の自由や言論の自由を認め、自国民の旅行に対する制限の緩和も含まれた[1]。「プラハの春」とは、「国民にある種の自由を提供しよう」という政策であった[18]。とくに、行政権限の地方分権化に対してソ連は苦々しく思っており、チェコスロヴァキアと交渉を重ねるも失敗に終わった。

1968年8月20日の深夜、ワルシャワ条約機構に加盟していた国々で構成された軍事部隊がチェコスロヴァキア社会主義共和国の領土を越えてなだれ込んだ。ソ連が指揮し、主導したワルシャワ条約機構の軍隊が、ドゥプチェクが実施しようとした自由化の改革を阻止・鎮圧するため、チェコスロヴァキアに侵攻した[1]。この軍事侵攻の作戦名は「ドナウ作戦」(Oпера?ция ≪Дуна?й≫)と名付けられた[19]。1968年8月20日午後11時、「ドナウ作戦」が開始された[19]。ソ連軍においては、陸軍大将のイヴァン・グリゴーリエヴィチ・パヴロフスキー(ロシア語版)がこの作戦の指揮を取った[20]。ソ連はワルシャワ条約機構の50万人規模の軍隊と戦車を送り込み、チェコスロヴァキアを占領した。ソ連軍に加えて、ポーランド軍、ブルガリア軍、ハンガリー軍も侵攻に加わった[1]。大統領のルドヴィーク・スヴォボダ(Ludvik Svoboda)と国防大臣のマルティン・ズール(Martin Dzur)の命令により、チェコスロヴァキアの軍隊は戦闘に介入しなかった。1968年8月21日の早朝までに、チェコスロヴァキアはソ連軍に占領された[21]。アレクサンデル・ドゥプチェクとその仲間たちは8月21日の朝に逮捕され、モスクワに連行された。プラハに戻されたのち、ドゥプチェクは1969年4月に共産党第一書記を辞任した[1]1969年4月17日、アレクサンデル・ドゥプチェクの後任として、グスターフ・フサーク(Gustav Husak)がチェコスロヴァキアの指導者に就任した[22]

1968年8月23日から8月26日にかけて、モスクワにて、チェコスロヴァキアの代表とソ連の代表が会談を行い、8月27日に共同声明を発表し[23]、モスクワ協定(スロバキア語版)に署名し[23]。ソ連軍の駐留を合法化し、1991年6月までソ連軍はチェコスロヴァキアに駐留し続けた。のちに、1991年6月30日までにチェコスロヴァキアの領土からソ連軍を撤退させる協定が締結され、ワルシャワ条約機構は1991年7月1日をもって失効し、消滅した[24]

チェコの歴史家、プロコップ・トメック(チェコ語版)とイヴォ・ペイチョフ(チェコ語版)は、ソ連による軍事侵攻の犠牲者について、当初は「108人」と計上していたが、その後、「137人」に修正した[25]。プロコップ・トメックによれば、ソ連軍は、侵略の初日だけで50人を射殺したという[26]。この軍事侵攻によって500人が重傷を負った[27]。ソ連兵に銃で撃たれ、その際にできた怪我が原因で死亡した者たちも出た[27]

この軍事侵攻に対し、中華人民共和国はソ連を非難した一方で、北朝鮮北ヴェトナムモンゴル人民共和国はソ連への支持を表明した。ユーゴスラヴィアルーマニアは、チェコスロヴァキアに対して同情的な反応を見せ、ルーマニア、ユーゴスラヴィア、チェコスロヴァキアの間で、特別な関係が構築され始めた。ソ連から独立したいという共通の想いが、この同盟の締結に繋がった[28]。チェコスロヴァキアへの軍事侵攻を受けて、ルーマニアとユーゴスラヴィアは自国の防衛を強化する措置を講じた。ルーマニアは「ルーマニアの領土内で軍事演習を実施する」というソ連の圧力に抵抗し、撥無に成功した[28]。ルーマニアとアルバニアは、この侵攻に対する軍隊の派遣を拒否した。1968年8月24日、ユーゴスラヴィアとルーマニアは、チェコスロヴァキアへの軍事侵攻を非難する共同宣言を正式に発表した[22]。アルバニアは1968年9月13日にワルシャワ条約機構から離脱するに至った[19]

1993年ボリス・エリツィンはプラハを訪問し、「チェコスロヴァキアへの侵略は許されない行為だ」と述べた一方で、「その責任はソ連にあり、民主主義のロシアには責任は無い」と附言した[29]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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