プラトン(プラトーン、古代ギリシャ語: Πλ?των、Plat?n、羅: Plato、紀元前427年 - 紀元前347年)は、古代ギリシアの哲学者である。ソクラテスの弟子にして、アリストテレスの師に当たる。
プラトンの思想は西洋哲学の主要な源流であり、哲学者ホワイトヘッドは「西洋哲学の歴史とはプラトンへの膨大な注釈である」という趣旨のことを述べた[注 1]。『ソクラテスの弁明』や『国家』等の著作で知られる。現存する著作の大半は対話篇という形式を取っており、一部の例外を除けば、プラトンの師であるソクラテスを主要な語り手とする[1]。
青年期はアテナイを代表するレスラーとしても活躍し、イストミア大祭に出場した他、プラトンという名前そのものがレスリングの師から付けられた仇名であると言われている[2]。 プラトンは、師ソクラテスから問答法(弁証法)と、(「無知の知」や「行き詰まり」(アポリア)を経ながら)正義・徳・善を理知的かつ執拗に追求していく哲学者(愛知者)としての主知主義的な姿勢を学び、国家公共に携わる政治家を目指していたが、三十人政権やその後の民主派政権の惨状を目の当たりにして、現実政治に関わるのを避け、ソクラテス死後の30代からは、対話篇を執筆しつつ、哲学の追求と政治との統合を模索していくようになる。この頃既に、哲学者による国家統治構想(哲人王思想)や、その同志獲得・養成の構想(後のアカデメイアの学園)は温められていた[3]。 40歳頃の第一回シケリア旅行にて、ピュタゴラス学派と交流を持ったことで、数学・幾何学と、輪廻転生する不滅の霊魂(プシュケー)の概念[注 2]を重視するようになり、それらと対になった、感覚を超えた真実在としての「イデア」概念を醸成していく。 帰国後、アカデメイアに学園を開設し、初期末・中期対話篇を執筆。「魂の想起(アナムネーシス)」「魂の三分説[4]」「哲人王」「善のイデア」といった概念を表明していく。また、パルメニデス等のエレア派にも関心を寄せ、中期後半から後期の対話篇では、エレア派の人物をしばしば登場させている。 後期になると、この世界そのものが神によってイデアの似姿として作られたものである[5]とか、諸天体は神々の「最善の魂」の知性(ヌース)によって動かされている[6]といった壮大な宇宙論・神学的描写が出てくる一方、第一回シケリア旅行時にシュラクサイのディオンと知り合ったことを縁として、僭主ディオニュシオス2世が支配するシュラクサイの国制改革・内紛に関わるようになったことで、現実的な「次善の国制」を模索する姿勢も顕著になる。
概説
生涯ラファエロ画「アテナイの学堂」 フレスコ画。