マルドニオスの主力部隊であるペルシア軍(ペルシア人、メディア人、そしてインドやバクトリアなどからなる外国人)が一斉にスパルタ軍に襲いかかった。しかし、マルドニオスの追撃命令は急であったため、戦列は乱れており、攻撃も散発的であった。ギリシア傭兵軍を除くペルシア全軍がスパルタ軍に矢玉を集中的に射かけていることを確認したパウサニアスは、すぐさま左翼のアテナイに応援の要請を出し、自身はこの戦いにおける吉凶を占った。一度目の占いでは凶と出たため、スパルタ軍に応戦するのを禁じ、再び吉凶を占った。スパルタ軍はこの間防戦一方であったが、敵の乱れた戦列のおかげで死傷者は数名程度に留まった。
一方、アテナイはスパルタの要請を聞き、ペルシア軍に包囲されつつあったスパルタ軍へと急行しようとした。しかし、敵右翼に配置されていたギリシア傭兵軍がアテナイ軍へと突撃し、アテナイ軍はギリシア傭兵軍と交戦せざるを得なくなり、スパルタへ応援に向かうことは不可能となった。
パウサニアスは二度目の占いで遂に吉を得ることができた。この瞬間にスパルタ全軍に攻撃命令を下し、それを聞いたスパルタ軍は瞬時に隊列を整えて雄叫びを上げた。今まで無抵抗だったスパルタ軍が一斉に隊列を組んで咆哮したことでペルシア軍は混乱し、浮き足だった。スパルタ軍は一転して猛攻撃し始め、装備と練度で劣るペルシア軍はまるで歯が立たず、スパルタ軍に蹂躙された。それでも遥かに数で勝るペルシア軍はその重圧でスパルタ軍を潰そうと休みなく押し寄せ、スパルタの長い槍を掴んではへし折って無力化しようとした。スパルタ軍は槍が折れたら短剣を引き抜いてペルシア軍に立ち向かった。戦闘は熾烈を極め、長きにわたったが、スパルタ軍は数の差をものともせずにペルシア軍を押し返した。マルドニオスは1,000名の親衛隊と共に戦場で指揮をとっていたが、スパルタ軽装歩兵の放った飛礫によって命を落とした。指揮官を失ったペルシア軍はますます劣勢となり、遂には敗走した。
後退した諸ポリス連合軍は戦争に参加すらせず、アテナイは依然としてギリシア傭兵部隊に足止めされていた。結果として、30万と伝えられるペルシア全軍を、それに比べれば遥かに少数のスパルタ軍だけで打ち破るという凄まじい会戦となった。また、ペルシア将軍を討ち取ることによって、神託で告げられたレオニダスの復讐は果たされた。
敗走したペルシア軍は後方に築いていた野営地に逃げ込み、そこで籠城戦をすることになった。この野営地には城壁が設けられており、攻囲戦を得意としないスパルタ軍は苦戦していた。そこに、ギリシア傭兵部隊を下してアテナイ軍が合流し、不屈の精神で城壁を乗り越えて突入した。これを糸口にしてスパルタ軍も雪崩れ込み、ペルシアの野営地を攻略することに成功した。生き残った僅かなペルシア兵はテーバイへと逃げ込んだ。 プラタイアの戦いはスパルタ・アテナイ軍の圧勝であった。この戦いでペルシア軍は20万名以上が戦死した。一方、スパルタ軍の戦死者は91名、アテナイ軍は52名だけであったという。プルタルコスはギリシア側も1000名ほどの戦死者が出たとしているが、それにしても大勝利であることに変わりはない。スパルタ軍はテルモピュライの戦いで討ち死にしたレオニダスの復讐を果たすことができたのであった。 この後、テーバイはギリシア連合軍に攻略され、ギリシア本土からペルシア勢力の影響は一掃された。この敗戦によってペルシアによるギリシア本土の侵略は失敗に終わり、反乱の失敗によってペルシアに従属していたイオニア諸都市の独立に、重大な影響を与えた。 典拠管理データベース: 国立図書館
戦いの影響
参考文献
de Souza,Philip『The Greek and Persian Wars 499-386BC』Osprey Publishing
ヘロドトス著 松平千秋訳『歴史(下)』(岩波文庫)
仲手川良雄著『テミストクレス』(中公叢書)
馬場恵二著『ペルシア戦争 自由のための戦い』(教育社)
フランス
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