プラウダ
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時が経つにつれてブハーリンとノーヴィ・ミールの関係は深くなり、実際にロシアに戻ったときに1917年1月から4月までノーヴィ・ミール.Zの事実上の編集者を務めていた[10]。1924年のレーニン死後のプラウダはブハーリンの権力基盤を形成する存在となり、新聞を編集したこともある敵対政党の指導者を助けることによりマルクス主義理論家としての評判を補強した。ブハーリンはプラウダの編集者として働き続けていたが、ヨシフ・スターリンとの論争により1929年2月にミハイル・トムスキーと共にプラウダでの職務から外された、これにより結果として彼らは失脚した[11]

ソ連の場所や物事はプラウダにちなんで名付けられたものが多く、その中でも特にゴーリキー州(プラウダ含め他の全国紙の新聞紙を大量に生産する製紙工場の本拠地である)のプラブジンスクの都市には幾つものプラウダの名を冠した通りや集団農場があった。
ソ連崩壊後

ミハイル・ゴルバチョフ書記長によるペレストロイカグラスノスチ政策の時代にはイズベスチヤに比べて保守的な記事が多く、時にはゴルバチョフの政策を批判することさえあった。ソ連崩壊後は古き良きソ連時代を懐かしむといった論調も目立つものの、内容はずっと軟化している。

1991年に共産党が解散されその資産が接収された際に、プラウダ紙もその一部として発行が停止されたが、その数週間後には旧スタッフによって同じ名前の新聞が創刊された。数ヶ月後にプラウダ紙の経営権はギリシャの実業家ヤンニコス家に移ったが、これに反発したスタッフたちはプラウダ紙から独立し、独自の新聞創刊(これはのちに政府によって発行禁止となった)を経て1999年にロシア語による初めてのニュースサイトであったプラウダ・オンラインを開設した。

2012年7月5日、プラウダ創刊号発行100周年を記念して、ロシア連邦共産党内に正式に編集部が組織された[12]
プラウダの発行する主な新聞・雑誌
プラウダ
日刊紙
アガニョーク(Огонёк、ともしびの意)
かつてはソビエト共産党の機関誌、週刊。
クロコディル(Крокодил、ワニの意)
ソ連時代は唯一の漫画誌。インテリ層に根強い人気がある。
セリスカヤ・ジーズニ(Сельская жизнь、農村生活の意)

歴代編集長1945年5月10日: I・V・スターリン勝利の日を祝う1960年代のプラウダの一面。

編集委員会(1917年3月-12月)

レフ・カーメネフ

ミハイル・カリーニン

ヴャチェスラフ・モロトフ

ヨシフ・スターリン

ウラジーミル・レーニン

グリゴリー・ソコリニコフ

マトヴェイ・ムラノフ(英語版)

コンスタンチーン・イェレメーエフ(ロシア語版)

ミハイル・オリミーンスキー(ロシア語版)

マリーヤ・ウリヤーノヴァ(ロシア語版)


ニコライ・ブハーリン(1918年12月?1929年)

編集委員会事務局(1929-1930年)

ガラリド・クルミン(ロシア語版)

ニコライ・ポポフ(ロシア語版)

イェメリヤーン・ヤロスラーフスキー(英語版)


マクシミリアン・サベリェフ(ロシア語版)(1928?1930年)

レフ・メフリス(1930?1937年)

イヴァン・ニキーチン(1937?1938年)

不明(1938?1940年)

ピョートル・ポスペーロフ(1940?1949年)

ミハイル・スースロフ(1949?1950年)

レオニード・イリイチョーフ(ロシア語版)(1951?1952年)

ドミトリー・シェピーロフ(1952?1956年)

パーヴェル・サチュコフ(ロシア語版)(1956?1964年)

アレクセイ・ルミャーンツェフ(ロシア語版)(1964?1965年)

ミハイル・ジミャーニン(ロシア語版)(1965?1976年)

ヴィークトル・アファナーシェフ(ロシア語版)(1976?1989年)

イワン・フロロフ(1989?1991年)

脚注^ a b マル秘情報取材班(編集)『世の中なんでも「ピン・キリ」読本―テレビじゃやらないマル珍データ』青春出版社(青春BEST文庫)、1996年、169頁。


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