プラウダ
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When army faces army, it would be the most insane policy to suggest to one of those armies to lay down its arms and go home. This would not be a policy of peace, but a policy of slavery, which would be rejected with disgust by a free people.[6]

4月3日に、ロシア帝国に帰国したレーニンとグリゴリー・ジノヴィエフ4月テーゼで、臨時政府との統一的な傾向を強く非難した。カーメネフはプラウダの社説でレーニンの立場に反対したが、レーニンは再度プラウダで「反革命」として臨時政府を非難することによって4月党大会では好評を得ることに成功した。それ以降プラウダは基本的にレーニンの編集姿勢を追い、十月革命後の1917年には毎日ほぼ10万枚を販売していた。
ソ連時代

ソビエト政権が首都をモスクワに遷都した時に事務所も1918年3月3日にモスクワに移し、プラウダはソビエト連邦共産党の公式出版物、または「党の機関紙」となった。プラウダは公式の政策や方針の変更を発表するための国民へのパイプとなり、1991年までそれを続けた。1989年までは国営企業、軍隊、その他の組織はプラウダの購読が必須だった[7]

他にも新聞はあったが、すべて他の国家機関の機関紙として存在していた。例えば外交関係を報じていたイズベスチヤソビエト連邦最高会議の機関紙であり、またトルード(英語版)は労働組合運動の機関紙であり、ベドノター(英語版)は赤軍と農民に配布されていた。他の様々な派生誌は全国紙として部数を増やすために名前に「プラウダ」を付けたものも発行されていた(コムソモールの機関紙はコムソモリスカヤ・プラウダピオネールの機関紙はピオネールスカヤ・プラウダ(英語版))、さらにソ連内の幾多の共和国と州では共産党の地域新聞が発行された、例えばカザフスタンではカザフスタンスカヤ・プラウダ(英語版)、ムルマンスク州ではポリャルナヤ・プラウダ(ロシア語版)、アルハンゲリスク州ではプラウダ・セヴェラ(英語版)、そしてモスクワ市ではモスコフスカヤ・プラウダ(英語版)などがあった。1941年11月: モスクワでプラウダを読む兵士。写真アナトーリー・ガラーニン(ロシア語版)ドイツがプロパガンダ用に作った偽プラウダ。ドイツ占領地域ではコルホーズが廃止されたと伝えている。

10月革命後まもなく、ニコライ・ブハーリンはプラウダの編集者となった[8]。 この人事は1917年4月にロシアへの帰国が決まったブハーリンに先立ち、移住と亡命が終わる最後の数ヶ月の間に決まっていた[9]。1916年11月から1917年4月までブハーリンはアメリカのニューヨーク市で暮らし、地元の図書館で勤務しつつロシア語話者用のロシア語新聞であるノーヴィ・ミール(英語版)(新世界の意)を発行していた[10]。時が経つにつれてブハーリンとノーヴィ・ミールの関係は深くなり、実際にロシアに戻ったときに1917年1月から4月までノーヴィ・ミール.Zの事実上の編集者を務めていた[10]。1924年のレーニン死後のプラウダはブハーリンの権力基盤を形成する存在となり、新聞を編集したこともある敵対政党の指導者を助けることによりマルクス主義理論家としての評判を補強した。ブハーリンはプラウダの編集者として働き続けていたが、ヨシフ・スターリンとの論争により1929年2月にミハイル・トムスキーと共にプラウダでの職務から外された、これにより結果として彼らは失脚した[11]

ソ連の場所や物事はプラウダにちなんで名付けられたものが多く、その中でも特にゴーリキー州(プラウダ含め他の全国紙の新聞紙を大量に生産する製紙工場の本拠地である)のプラブジンスクの都市には幾つものプラウダの名を冠した通りや集団農場があった。
ソ連崩壊後

ミハイル・ゴルバチョフ書記長によるペレストロイカグラスノスチ政策の時代にはイズベスチヤに比べて保守的な記事が多く、時にはゴルバチョフの政策を批判することさえあった。ソ連崩壊後は古き良きソ連時代を懐かしむといった論調も目立つものの、内容はずっと軟化している。

1991年に共産党が解散されその資産が接収された際に、プラウダ紙もその一部として発行が停止されたが、その数週間後には旧スタッフによって同じ名前の新聞が創刊された。数ヶ月後にプラウダ紙の経営権はギリシャの実業家ヤンニコス家に移ったが、これに反発したスタッフたちはプラウダ紙から独立し、独自の新聞創刊(これはのちに政府によって発行禁止となった)を経て1999年にロシア語による初めてのニュースサイトであったプラウダ・オンラインを開設した。

2012年7月5日、プラウダ創刊号発行100周年を記念して、ロシア連邦共産党内に正式に編集部が組織された[12]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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