1987年、プライマル・スクリームは、マッギーがワーナーと共同出資して設立したエレヴェイション・レコーズからファーストアルバム『ソニック・フラワー・グルーヴ』を発売した。作中の何曲かには、後に正式メンバーとなるフェルトのキーボーディスト、マーティン・ダフィが参加した。バーミンガム出身のこのキーボーディストには、ギレスピーと同じく労働組合幹部の父がいた[24]。元レッド・クレイオラのメイヨ・トンプソンがプロデュースしたこのアルバムは、メディアの高い評価とは裏腹に商業的な成功は収められなかった[25]。ワーナーから契約を破棄されたバンドはクリエイションに復帰し、12000ポンドのレコーディング費用を受け取り、次のアルバム制作に取り掛かった[25]。ファーストアルバムでギレスピーと共にバンドの中核を担ったビーティはすでにバンドを離れていた。ビーティ脱退後、ヤングがベースからギターへ転向し、ビーティ、ギレスピーの連名だったソングクレジットは、全てギレスピー、イネス、ヤングの連名へと変わった。
ローデッド詳細は「ローデッド (プライマル・スクリームの楽曲)」を参照『スクリーマデリカ』のカバーアートとボビー・ギレスピー(1991年)
1989年に発売されたセルフタイトルのセカンドアルバム『プライマル・スクリーム』は、ガレージ・ロック色の濃いアルバムとなった[26]。このアルバムはインディチャートでトップとなるが、チャートからは4週間で姿を消した[27]。後年、クリエイションのプレス担当を務めたジェフ・バレット[† 2]は「誰からも受け入れられなかった。まったく誰からも」と、当時の状況を振り返った[27]。好意的な記事はメロディ・メイカー誌に僅かに載る程度に終わり、最終的にバレットはクリエイションを解雇された[27]。彼はプライマル・スクリームとの関係を継続させてくれるよう懇願したが、マッギーはそれを受け入れなかった[28]。
バレットはクリエイションを離れた後、知人を介して知り合った人気DJ・アンドリュー・ウェザオールにプライマル・スクリームを紹介した[29]。ウェザオールはセカンドアルバムの中から「アイム・ルージング・モア・ザン・アイル・エヴァー・ハヴ」というバラードを気に入り、後にイネスと共にこの曲にリミックスを施した[30]。このリミックスは「ローデッド」という名が付けられ、シングルとして発売された。「ローデッド」のホワイトレーベルは瞬く間にイギリス中のDJへと行き渡り、プライマル・スクリーム初のヒットシングルが生まれた。「ローデッドには当時の最先端のあらゆる要素が全て詰め込まれ、アシッド・ハウスとロックのカルチャーを一つにまとめていた」当時のプレス担当[† 3]はこう振りかえった[31]。
「ローデッド」を含むバンドの出世作『スクリーマデリカ』は1991年に発売された。作中の代表曲「ハイヤー・ザン・ザ・サン」は、ストーン・ローゼズの「フールズ・ゴールド」と並び、セカンド・サマー・オブ・ラブと称された世代のアンセムとされた[32]。アルバムのクレジットには、ウェザオール、ジ・オーブ、ヒューゴ・ニコルソンといったダンス系のミュージシャンから、ローリング・ストーンズとの仕事で知られるジミー・ミラーまで様々な顔ぶれが並んだ。よりダンス的なグルーヴに傾倒し、「時代を切り取った[24]」このアルバムは、マーキュリー賞の初代ウィナーとなった[32]。
アルバムは50万枚のヒットを飛ばした一方で、マッギーは利害関係の対立からバンドのマネジメントを降りた[33]。同時にバンドは殆どのメンバーがヘロイン中毒になっていた。「当時の彼らのエゴの発露ぶりを見るとレコードは4000万枚売れたと思えるかもしれないけど、実際は50万枚だった」とは、後年のマッギーの弁である[34]。 『スクリーマデリカ』の一連のツアー後、バンドはアルバム制作のために、ラウンドハウススタジオへ6週間から2ヶ月ほど入った。まずマッギーは彼らにカバーをやってもらおうとスタジオを40時間抑えたが、上がってきたのは酷い出来の5曲のみであった[35]。 バンドはイギリスを離れ、メンフィスで3ヶ月ほどレコーディングを行った[36]。制作にはジョージ・クリントンなどの高名なミュージシャンが大挙して参加した。プロデューサーにはトム・ダウドが起用されたが、彼は全ての音をフラットにミックスしてしまい、新たにブラック・クロウズとの仕事で知られるジョージ・ドラクリアス
ギヴ・アウト・バット・ドント・ギブ・アップ
70年代中期のローリング・ストーンズを模倣したような内容の『ギヴ・アウト・バット・ドント・ギヴ・アップ』は、1994年3月に発売された[32]。復帰したバレットの尽力もあって発売前に批判的なレビューは一切出ず、「ロックス」というヒットシングルも生まれた[38]。しかしアルバムには発売後から「オーバープロデュース」、「期待はずれ」などの不満があちこちから噴出し[39]、ギレスピーも「ほんの数曲以外は全部駄曲」と述べ、失敗作であることを暗に認めた[32]。プロデューサーのダウドは酷くギレスピーを落ち込ませてしまったらしく、彼はこの後の3年間レコーディングされたどの曲も歌おうとしなかった[36]。なおこのアルバムからクリエイションはソニー・ミュージックの傘下に入った。 1996年秋、イネスの提案から6ヶ月の休暇を挟んだバンドには、解散したザ・ストーン・ローゼズからベーシストのゲイリー・モンフィールドが加入した[24]。「マニ」のニックネームを持つこの男は、シングルにもなった「コワルスキー」、そして「モーターヘッド」のカバーの2曲でベースを弾き、バンドに再び勢いを取り戻した。マッギーは「ここでバンドとしての在り方と自らの音楽を見直した」としている[40]。この頃からソングクレジットにはマニとダフィの名も加えられた。
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