プライマル・スクリーム
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よりダンス的なグルーヴに傾倒し、「時代を切り取った[24]」このアルバムは、マーキュリー賞の初代ウィナーとなった[32]

アルバムは50万枚のヒットを飛ばした一方で、マッギーは利害関係の対立からバンドのマネジメントを降りた[33]。同時にバンドは殆どのメンバーがヘロイン中毒になっていた。「当時の彼らのエゴの発露ぶりを見るとレコードは4000万枚売れたと思えるかもしれないけど、実際は50万枚だった」とは、後年のマッギーの弁である[34]
ギヴ・アウト・バット・ドント・ギブ・アップ

『スクリーマデリカ』の一連のツアー後、バンドはアルバム制作のために、ラウンドハウススタジオへ6週間から2ヶ月ほど入った。まずマッギーは彼らにカバーをやってもらおうとスタジオを40時間抑えたが、上がってきたのは酷い出来の5曲のみであった[35]

バンドはイギリスを離れ、メンフィスで3ヶ月ほどレコーディングを行った[36]。制作にはジョージ・クリントンなどの高名なミュージシャンが大挙して参加した。プロデューサーにはトム・ダウドが起用されたが、彼は全ての音をフラットにミックスしてしまい、新たにブラック・クロウズとの仕事で知られるジョージ・ドラクリアスがミックスを行った[37]。制作費用は42万ポンドまで膨れ上がり、マーケティングに投じられた50万ポンドとあわせてクリエイション史上最高額となった[37]

70年代中期のローリング・ストーンズを模倣したような内容の『ギヴ・アウト・バット・ドント・ギヴ・アップ』は、1994年3月に発売された[32]。復帰したバレットの尽力もあって発売前に批判的なレビューは一切出ず、「ロックス」というヒットシングルも生まれた[38]。しかしアルバムには発売後から「オーバープロデュース」、「期待はずれ」などの不満があちこちから噴出し[39]、ギレスピーも「ほんの数曲以外は全部駄曲」と述べ、失敗作であることを暗に認めた[32]。プロデューサーのダウドは酷くギレスピーを落ち込ませてしまったらしく、彼はこの後の3年間レコーディングされたどの曲も歌おうとしなかった[36]。なおこのアルバムからクリエイションはソニー・ミュージックの傘下に入った。
バニシング・ポイント

1996年秋、イネスの提案から6ヶ月の休暇を挟んだバンドには、解散したザ・ストーン・ローゼズからベーシストのゲイリー・モンフィールドが加入した[24]。「マニ」のニックネームを持つこの男は、シングルにもなった「コワルスキー」、そして「モーターヘッド」のカバーの2曲でベースを弾き、バンドに再び勢いを取り戻した。マッギーは「ここでバンドとしての在り方と自らの音楽を見直した」としている[40]。この頃からソングクレジットにはマニとダフィの名も加えられた。

「コワルスキー」を先行シングルに、『バニシング・ポイント』は1997年の6月に発売された。アルバムはダブの影響が色濃い作風となった。クリエイションと深い関係を持つライターの伊藤英嗣は「ダブからロックンロールまで多彩な要素が自然に消化されたアルバム」と評した[21]。プロデューサーはブレンダン・リンチが務め、セカンドシングルになった「スター」ではオーガスタス・パブロがピアニカで参加した[41]。「コワルスキー」のミュージックビデオは、1996年のシングル「ザ・ビッグ・マン&ザ・スクリーム・チーム・ミート・ザ・バーミー・アーミー・アップタウン」で競演したアーヴィン・ウェルシュの監修の下、元ジーザス&メリーチェインのダグラス・ハートが監督を務め[† 4]、モデルのケイト・モスが出演した[42]。『バニシング・ポイント』は1971年アメリカで公開されたロードムービーで、公開から年月が経った当時でもカルト的な人気を持っていた。アルバムタイトルはこの映画から採られたもので、「コワルスキー」はこの映画の主人公の名前である。同曲中には映画の中から取られた台詞、音声がいくつもサンプリングされている。同年10月にはエイドリアン・シャーウッドによるダブ・リミックス・アルバム『エコー・デック』が発売された。

1998年にカットされたシングル「イフ・ゼイ・ムーヴ・キル・エム」にはマイ・ブラッディ・ヴァレンタインのケヴィン・シールズによるリミックスが収録された。このシングルには更にジーザス&メリー・チェインの「ダークランズ」のカバー「バッドランズ」が収録されている[43]。メリーチェインはこの年クリエイションに復帰した。
XTRMNTR、イーヴル・ヒート

1999年までにギレスピーとマッギーは和解した[44]。マッギーは同年の11月にクリエイションの閉鎖を宣言し、2000年1月に発売された『XTRMNTR(エクスターミネーター)』はクリエイション・レコーズ最後のアルバムとなった[45]。ケヴィン・シールズ、ケミカル・ブラザーズニュー・オーダーバーナード・サムナー等が参加したこのアルバムは、今までにない政治的姿勢を打ち出した攻撃的な歌詞が並んだ[24]パブリック・イメージ・リミテッドの名が引き合いに出されることも多かったこのアルバムは、売り上げはさほど伸びかったものの、多数のメディアから好意的なレビューを贈られた[24][46]。久方ぶりに制作に深く関与したマッギーは「間違いなくこの年のベストアルバムに入る」と絶賛した[47]。「10年後に振り返ったとき、皆プライマル・スクリームはいいバンドだったと口にする[47]」とも。その言葉は現実のものとなり、2009年にNME誌が発表した2000年代のベストアルバム100選の中で、このアルバムは3位にランクされた[48]

ライブメンバーにはケヴィン・シールズがラインナップに加わった。1991年の『ラヴレス』以降、狂人との扱いを受けていた[49]マイ・ブラッディ・ヴァレンタインのフロントマンは、プライマル・スクリームのギタリストとして久方ぶりにステージに立った。彼は2000年の終わりにはグループを離れる考えがあったが、その後何年かギタリストとしてツアーを共にした[50]

マッギーはプライマル・スクリームをオアシスと並べ、クリエイションの2大バンドと称した[44]


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