当時のギレスピーはプライマル・スクリームの活動と並行してジーザス&メリーチェインのドラマーを務めていた。彼は以前オルタード・イメージズでローディを務めた経験があり、気性が激しいドラマーが手に負えなくると、代役としてドラムを叩いていた[20]。ギレスピーはメリーチェインが『サイコキャンディ』を出した絶頂期に正式メンバーとしての誘いを受けるが、彼はこれを拒絶してメリーチェインを脱退した[19]。また、ギレスピーはこの時期印刷工をやっていたため、マッギーが設立したクリエイション・レコーズのスリーブは彼が印刷していた[21]。
1984年、バンドはマッギー率いるクリエイション・レコーズと契約し、ビーティが作り出す12弦ギターの音色が特徴的な「オール・フォール・ダウン」、「クリスタル・クレッセント」というシングル2枚を発売した[19]。シングルのレビューには、しばしザ・バーズ、スモール・フェイセズなどが引き合いに出され、2枚目のシングル「クリスタル・クレッセント」のB面に収録された「ヴェロシティ・ガール」は、『ニュー・ミュージカル・エクスプレス』(NME)誌が付録につけた『C86』というカセットテープの1曲目に収録され、ささやかな注目を浴びた[22]。ザ・ストーン・ローゼズのジョン・スクワイアは、後にこの頃のプライマル・スクリームのスタイルが彼らのファーストアルバムの青写真になったことを話している[23]。ローゼズのヒット曲「メイド・オブ・ストーン」が「ヴェロシティ・ガール」と酷似していることも周知の事実だ[23]。1986年にはボーカルにギレスピー、ギターにビーティとイネス、ベースにヤングというラインナップが揃った。
1987年、プライマル・スクリームは、マッギーがワーナーと共同出資して設立したエレヴェイション・レコーズからファーストアルバム『ソニック・フラワー・グルーヴ』を発売した。作中の何曲かには、後に正式メンバーとなるフェルトのキーボーディスト、マーティン・ダフィが参加した。バーミンガム出身のこのキーボーディストには、ギレスピーと同じく労働組合幹部の父がいた[24]。元レッド・クレイオラのメイヨ・トンプソンがプロデュースしたこのアルバムは、メディアの高い評価とは裏腹に商業的な成功は収められなかった[25]。ワーナーから契約を破棄されたバンドはクリエイションに復帰し、12000ポンドのレコーディング費用を受け取り、次のアルバム制作に取り掛かった[25]。ファーストアルバムでギレスピーと共にバンドの中核を担ったビーティはすでにバンドを離れていた。ビーティ脱退後、ヤングがベースからギターへ転向し、ビーティ、ギレスピーの連名だったソングクレジットは、全てギレスピー、イネス、ヤングの連名へと変わった。
ローデッド詳細は「ローデッド (プライマル・スクリームの楽曲)」を参照『スクリーマデリカ』のカバーアートとボビー・ギレスピー(1991年)
1989年に発売されたセルフタイトルのセカンドアルバム『プライマル・スクリーム』は、ガレージ・ロック色の濃いアルバムとなった[26]。このアルバムはインディチャートでトップとなるが、チャートからは4週間で姿を消した[27]。後年、クリエイションのプレス担当を務めたジェフ・バレット[† 2]は「誰からも受け入れられなかった。まったく誰からも」と、当時の状況を振り返った[27]。好意的な記事はメロディ・メイカー誌に僅かに載る程度に終わり、最終的にバレットはクリエイションを解雇された[27]。彼はプライマル・スクリームとの関係を継続させてくれるよう懇願したが、マッギーはそれを受け入れなかった[28]。
バレットはクリエイションを離れた後、知人を介して知り合った人気DJ・アンドリュー・ウェザオールにプライマル・スクリームを紹介した[29]。