ボビー・ギレスピー
とロバート・ヤングは、共にグラスゴーのキングスパーク・セカンダリースクールに通っていた[7][8]。ギレスピーの父は熱心な労働党支持者で、労働組合の幹部を務めていた。ギレスピーには2つ年上のアラン・マッギーという友人がいた。当初ギレスピーとマッギーは大親友という程ではなかったが、ギレスピーが誘ったシン・リジーのショーをきっかけに連れ立ってコンサートへ足を運ぶようになっていった[8][† 1]。彼らは当時流行していたパンク・ロックを通じて親交を深め、マッギーが1975年に学校を退学する頃には互いの一番の親友となっていた[10]。パンクに出会った彼らは反抗期を迎え、音楽のこと以外には興味を示さなくなった。当時の彼らはいつも喧嘩腰で、信じられないほどの癇癪持ちだったという[11]。アンドリュー・イネスは、ザ・ドレインズというバンドでギターを弾いていた。このバンドのベース募集にマッギーが応募したことで彼らは出会った[12]。マッギーはこの募集への唯一の応募者ということもあり、ベースプレイヤーとしてドレインズのメンバーに加わることになった。ギレスピーはマッギーを通じてイネスと知り合った。2、3ヵ月が経ち、イネスとマッギーはドレインズの他のメンバーを追い出し、ギレスピーを加えてキャプテン・スカーレット・アンド・ザ・ミステロンズというバンドのようなものを始めた[12]。当時の彼らはザ・クラッシュやザ・ジャムに夢中で、パンクの有名曲を弾くことが出来たイネスをギレスピーは尊敬していた[12]。このバンドごっこの後、イネスとマッギーは1978年から1979年にかけていくつかのバンドに所属した。このバンドの中には、後にRCAレコードから幾つかのヒットシングルを出すH2Oも含まれている[13]。
1980年の6月、マッギーはイネスの誘いでロンドンへ上京した[14][15]。マッギーはグラスゴー時代と変わらずイギリス国鉄で働き、同僚女性と結婚した。彼はイネスと自身のバンドで活動する傍らリヴィング・ルームというクラブイベントを主催し、次第にインディー界隈で名の知られる存在になっていった[16]。一方イネスは薬物中毒に陥った結果肝炎になり、後に肝臓を一つ摘出した[17]。 1人グラスゴーに残されたギレスピーは、友人のジム・ビーティとプライマル・スクリームを結成した。彼らが作った「エレメンタル・ノイズ・テープス」なるデモテープは、ギレスピーがゴミ箱を叩き、そこにビーティがファズ・ギターを乗せていた[18]。ギレスピーは1987年にブライトンに移住するまでグラスゴーを拠点にしていたが、1983年にはリヴィング・ルームに度々出演するようになっていた[19]。プライマル・スクリームは、1984年10月に正式な初ライブを行った。「アイロニカルだけど、パブリック・イメージ・リミテッドみたい」マッギー曰くこの頃のバンドは、ポストパンク的なスタイルを取り入れていた[19]。 当時のギレスピーはプライマル・スクリームの活動と並行してジーザス&メリーチェインのドラマーを務めていた。彼は以前オルタード・イメージズ
ソニック・フラワー・グルーヴ
1984年、バンドはマッギー率いるクリエイション・レコーズと契約し、ビーティが作り出す12弦ギターの音色が特徴的な「オール・フォール・ダウン」、「クリスタル・クレッセント」というシングル2枚を発売した[19]。シングルのレビューには、しばしザ・バーズ、スモール・フェイセズなどが引き合いに出され、2枚目のシングル「クリスタル・クレッセント」のB面に収録された「ヴェロシティ・ガール」は、『ニュー・ミュージカル・エクスプレス』(NME)誌が付録につけた『C86』というカセットテープの1曲目に収録され、ささやかな注目を浴びた[22]。ザ・ストーン・ローゼズのジョン・スクワイアは、後にこの頃のプライマル・スクリームのスタイルが彼らのファーストアルバムの青写真になったことを話している[23]。ローゼズのヒット曲「メイド・オブ・ストーン」が「ヴェロシティ・ガール」と酷似していることも周知の事実だ[23]。1986年にはボーカルにギレスピー、ギターにビーティとイネス、ベースにヤングというラインナップが揃った。
1987年、プライマル・スクリームは、マッギーがワーナーと共同出資して設立したエレヴェイション・レコーズからファーストアルバム『ソニック・フラワー・グルーヴ』を発売した。作中の何曲かには、後に正式メンバーとなるフェルトのキーボーディスト、マーティン・ダフィが参加した。バーミンガム出身のこのキーボーディストには、ギレスピーと同じく労働組合幹部の父がいた[24]。元レッド・クレイオラのメイヨ・トンプソンがプロデュースしたこのアルバムは、メディアの高い評価とは裏腹に商業的な成功は収められなかった[25]。ワーナーから契約を破棄されたバンドはクリエイションに復帰し、12000ポンドのレコーディング費用を受け取り、次のアルバム制作に取り掛かった[25]。ファーストアルバムでギレスピーと共にバンドの中核を担ったビーティはすでにバンドを離れていた。ビーティ脱退後、ヤングがベースからギターへ転向し、ビーティ、ギレスピーの連名だったソングクレジットは、全てギレスピー、イネス、ヤングの連名へと変わった。
ローデッド詳細は「ローデッド (プライマル・スクリームの楽曲)」を参照『スクリーマデリカ』のカバーアートとボビー・ギレスピー(1991年)
1989年に発売されたセルフタイトルのセカンドアルバム『プライマル・スクリーム』は、ガレージ・ロック色の濃いアルバムとなった[26]。このアルバムはインディチャートでトップとなるが、チャートからは4週間で姿を消した[27]。