アリストテレスは、一時期は生物の種類によって異なるプシュケーの段階があると見なし、(1)植物的プシュケー (2)動物的プシュケー (3)理性的プシュケー の3つを区別した。だが、彼の知識が増えるにしたがい、植物・動物・人間にプシュケーの違いが絶対的にあるとは考えないようになり、動物もその程度に応じて人間と同じような理性を持っていると考え、さらにその後になると、植物・動物・人間でプシュケーに区別は基本的に無い、と見なすようになったようである[8]。
プロティノスは、神秘主義的な方向に進み、一者からヌース(知性)が、ヌースからプシュケーが、そしてプシュケーからヒューレー(質料)が流れ出ると述べた。
新約聖書「霊性」を参照
新約聖書における「プシュケー」は、例えば『マルコによる福音書』3:4、8:35、10:45のそれは、日本語では「命」と訳しうる。また、マルコ 14:34、ルカなどでは感情の座である[7]。新約聖書の「プシュケー」という表現は、現代語で言う「精神」と「身体」を合わせた人間を表しているのであって、霊肉二元論ではないので、「人」とか「人々」と訳したほうが自然なくだりも多い[7]。
新約聖書ではプシュケーはプネウマと対比され、プネウマのほうは神から与えられる超自然的賜物とされている[7]。例えば、パウロ書簡でもそうで、(ロシア語聖書ではプシュケーはドゥシャ、プネウマはドゥーフ、という語に訳し分けられている)、プネウマ(ドゥーフ)はパウロ書簡では、心・魂ではなく、それらを超えたところから外的に働く力、としてしるされている[9]。救済は古代ギリシアやグノーシス主義では「神的プシュケーの罪ある肉体(ソーマ)の牢獄(セーマ)からの解放」であったが、新約聖書ではあくまで体の復活としてとらえられている[7]。 ルターは、ギリシア語のプシュケーをつねに「いのち」と訳していたという[10]。
ルター
脚注
注釈^ なお、息という意味から《生きること》や《いのち》までも派生するようになったのは何も古代ギリシャ語に限らない。日本語でも、「いき(息)」という言葉が活用(語形変化)して「いき-る(生きる)」という言葉が成立したのである[2][3]。また「いのち」という言葉の語源に関する説は(説がひとつに定まっているわけではなく確定的な説は無いものの)「い(息)のうち」という意味・表現から生じたという説[4]、あるいは「息のち(力)」から生じた、とする説[5]が主たるもので、いずれにせよ日本語でも一般的に「いのち」は「息」から派生した言葉だと判断されているのである。
出典^ a b 『ブリタニカ国際大百科事典』第11巻、【生物学】p.220
^ 『日本語語源大辞典』2005
^ 『大言海』1932年
^ 大言海、日本語源辞典
^ 語源由来辞典
^ 通約不可能性も参照のこと
^ a b c d e f g 山我哲雄「【プシュケー】」『哲学 ・ 思想 事典』岩波書店、1998年。4-00-080089-2。
^ 『ブリタニカ国際大百科事典』第11巻、【生物学】p.221
^ 文學界 第 7?8 号 p.150
^ 菱刈晃夫『近代教育思想の源流:スピリチュアリティと教育』p.123
参考文献
『哲学 ・ 思想 事典』1998年 【プシューケー】
『日本語語源大辞典』2005
『ブリタニカ国際大百科事典』第11巻
関連文献
西岡孝治「プシュケーとソーマ --プラトンの対話篇に於ける」『思索』 (5), 東北大学哲学研究会、155-172, 1972-10
清水哲郎『パウロの言語哲学』2001
荻野博和「オリゲネスにおける聖書解釈の原理としてのプシュケー」トマス大学大学院論叢, 聖トマス大学大学院論叢 (11), 1-55, 2009-12, 聖トマス大学大学院人文科学研究科
北村普「サルトルとプシュケーの問題」『哲学世界』早大文研哲学専攻刊 1988年
関連項目
意識
アニマ - 古代ギリシア語のプシュケーを中世ヨーロッパでラテン語にする際に用いられた語
ナフス(英語版) - イスラム教で魂、自我を意味する語
典拠管理データベース: 国立図書館
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