プエルトリコ
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当初、プエルトリコ島は「聖ヨハネ(サンフアン)島」と呼ばれており、プエルト・リコ(豊かな港の意)とはサン・フアン市街のみを指していた[1]。しかし、やがて商人や島を訪れる人々は島そのものをプエルトリコ島と呼ぶようになり、一方でサン・フアンは港と首都を指すようになった[注 2]。「近代における世界の一体化 #ラテンアメリカ諸国の独立」も参照

プエルトリコの本格的な征服は、コロンによる発見から15年の経過した1508年にスペインから総督としてやってきたフアン・ポンセ・デ・レオンらのコンキスタドールによってなされた。3万人ほどいたといわれているタイノ人は征服され、プエルトリコへの本格的な入植がはじまった。ポンセは島を「サン・フアン・プエルト・リコ」と呼んだ。最初の入植地はサン・フアン港の近くにあるカパラ(英語版)に造られたが、1521年にサン・フアン・ビエホ(オールド・サン・フアン)に移された。
プエルトリコ総督領(1582年 - 1898年)
詳細は「プエルトリコ総督領」を参照モーロ要塞

スペイン人はインディヘナ黒人奴隷を使って金を採掘したが、1570年代に金が掘りつくされると以降はラテンアメリカでも珍しい定住型の農業植民地となり、この時期には生姜が輸出されるようになった。また同時にスペインにとって、インディアスの植民地を防衛するための重要な拠点となったこの島は、ハバナカルタヘナ・デ・インディアスサント・ドミンゴと同様に16世紀後半からヌエバ・エスパーニャ副王領からの収益で要塞化され、モーロ要塞(英語版)の建設が開始された。

16世紀から18世紀にはイギリスオランダ海賊の攻撃を何度か受けたが、フランシス・ドレーク卿が撃退されたのをはじめとして、海賊の襲撃は失敗に終わり、プエルトリコは一貫してスペインの植民地だった。1797年のイギリスによる攻撃を最後に以降100年近く平和の時期が訪れる。

スペイン・ボルボン朝フェルナンド7世フランス帝国ナポレオン・ボナパルトによって退位させられたことをきっかけに1808年に勃発したスペイン独立戦争は、ラテンアメリカ大陸部のクリオージョに自治、独立の意識を芽生えさせ、ベネズエラシモン・ボリーバルアルゼンチン(当時はリオ・デ・ラ・プラタ連合州)のホセ・デ・サン=マルティンメキシコミゲル・イダルゴらがスペインからの解放戦争を進めたが、フランスサン=ドマングでのハイチ革命の際には黒人奴隷の蜂起によって白人支配が崩壊したこと、ラテンアメリカ各地からの王党派の難民が多く亡命してきたことなどにより、スペイン帝国最後のインディアス植民地となったキューバとプエルトリコではクリオージョによる独立運動は発生しなかった。

プエルト・リコでは19世紀に入るまで小農民による自給自足的な経済が営まれ、スペインによる植民地支配も相対的に緩やかなものだったが、こうして流入した難民によって1833年には人口33万人を数えた。スペイン政府によってキューバと同様に、奴隷解放によって砂糖供給から没落したサン=ドマングに代わるためのサトウキビプランテーションが奨励されたが、キューバに比べて資本集積の度合いが低かったために効率的なプランテーション形成が進まず、結果として国際競争力を確保できなかったため、キューバやペルーブラジルの砂糖に押されて砂糖生産は停滞し、代わりに島中央部の山間部で小農によって行われたコーヒーが主要輸出商品となった。このため、キューバやブラジルと同様に黒人奴隷制度は維持されたものの、プエルト・リコでは砂糖プランテーションが発達しなかったために黒人奴隷の大規模な導入には繋がらなかった。

19世紀後半になると、同様にスペインの植民地だったキューバと連動した独立運動が起こり、1868年には山間部で最初のラーレス独立蜂起(スペイン語版、英語版)が勃発した。スペイン当局は1873年には奴隷制を廃止したものの、もはやプエルトリコ人の独立への願いを止めることはできなかった。
自治政府(1898年 - 1900年)
自治主義者フリオ・ビスカロンド(スペイン語版、英語版)

やがて第二次キューバ独立戦争がはじまると、プエルトリコでも反乱が起き、焦ったスペイン当局により、1897年にプエルト・リコ側とスペイン側の合意によって自治が認められ、1898年3月に自治政府が成立するが、同年4月にハバナで起きた戦艦メイン号の謎の爆沈事件により勃発した米西戦争で8月にはアメリカ軍に占領され、戦後にスペインからアメリカに割譲され、戦争終結のパリ条約によりアメリカ合衆国の領土となった。
アメリカ合衆国領時代(1900年 - )
第一次世界大戦」および「バナナ戦争」も参照

戦後、パリ条約によって完全にアメリカ合衆国の領土となったプエルト・リコでは、フォラカー法によって1900年7月にプエルト・リコ民政府が成立し、1898年3月に生まれた自治政府は解体された。キューバは1901年に合衆国の傀儡政権の下の独立が認められたが、プエルト・リコは知事を合衆国大統領が任命する直轄領となった。このため、プエルト・リコでは主権を求める完全独立派、アメリカ合衆国を構成する一州への州昇格派、現状のまま自治権の拡大を求める自治権拡大派の、現在まで続く三大政治潮流が生まれた。

スペインから譲渡された後にはアメリカ合衆国の企業が進出した。1917年に制定されたジョーンズ=シャフロス法(スペイン語版、英語版)によって島民はアメリカ国民としての市民権を得たが、合衆国大統領選挙への選挙権は与えられなかった。また、市民権を得たがために所得税を免除されたものの、徴兵の対象となり、第一次世界大戦では二万人のプエルトリコ人が徴兵され、アメリカ軍の兵士として戦った。
ムニョス・マリンの時代(1941年 - 1965年)
進歩のための同盟」も参照

1930年代には自治権拡大派が勢力を拡大し、自治拡大派のルイス・ムニョス・マリン(スペイン語版、英語版)は1938年にプエルトリコ人民民主党(スペイン語版、英語版)を結成した。ムニョスは1940年の上下院選挙で勝利した。1946年にムニョスは人民民主党の綱領から完全独立を除外したため、党内の独立派がプエルトリコ独立党を結成した。1948年では初めて知事の直接選挙が行われ、人民民主党のムニョスが知事に選出された。

その後プエルトリコでは独立運動が激化した。反乱は国民党指導者ペドロ・アルビス・カンポス(スペイン語版、英語版)の指揮のもと1950年10月30日に始まり、島内のさまざまな町で蜂起や反乱事件が続いた。ウトゥアドでは暴徒が虐殺、ハユヤでは一度「プエルトリコ自由共和国」が宣言されたが、その後米国が軍隊を派遣し終局した。サンフアンでは国民党員がラ・フォルタレサ(知事官邸)でプエルトリコ知事のルイス・ムニョス・マリンの暗殺を企てたが失敗に終わった。これらの一連の反乱によって、28名が死亡し、49名が負傷した。

独立を求めた反乱の動きは島内に限らなかった。1950年11月1日、2名の国民党員がワシントンD.C.ブレアハウスを襲撃し、トルーマン米国大統領の暗殺を企てたが未遂に終わった。プエルトリコ国民党による最後の大きな事件は1954年3月1日に起こった。4名の国民党員がアメリカ合衆国下院を攻撃し、プエルトリコの植民地的状況に対して世界的な注目を集めた。

事態を重く見た連邦政府は1952年にはアメリカのコモンウェルスとして内政自治権を付与した。ムニョス知事は合衆国資本を誘致し、工業化が進められたが、それでも満足な雇用が確保できなかったため、多くの農村人口がニューヨークなどの、アメリカ合衆国の大都市に移住した。
二大政党制

1967年に州昇格派によってプエルトリコ新進歩党(スペイン語版、英語版)が結成され、1968年の選挙では新進歩党が勝利し、自治拡大派の人民民主党との二大政党制が誕生した。1970年代に福祉制度の拡大が進み、プエルトリコ住民は連邦の社会福祉を生活の糧とするようになった。1998年アメリカ合衆国の51番目の州昇格を巡る住民投票が行われたが、否決された。

2000年11月の知事選挙では、人民民主党のシーラ・カルデロン(スペイン語版、英語版)が当選し、初の女性知事が誕生した。2004年の知事選挙では、人民民主党のアニーバル・アセベド・ビラ(スペイン語版、英語版)が知事に就任した。2009年3月3日、知事は財政破綻を宣言し、自治領政府の公務員の約1割に当たる3万人以上を削減するとの方針を発表した[3]

2012年11月にプエルトリコの地位変更を巡る住民投票が行われ、州昇格の票が多数を占めた[4]


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