ブーツィーはデトロイトに移住し、キャットフィッシュ、キャッシュ・ワディとともに、自身のバンド、ハウスゲスツ (The House Guests) を結成した。ハウス・ゲスツ名義ではJB直系ファンク曲の「ワット・ソー・ネバー・ザ・ダンス」がベスト盤に収録されている。ボーカルはペースメイカーズで一緒だったフィリップ・ウィンが担当し、またゲイリー・"マッドボーン"・クーパー
も加わった。このバンドで活動中の1972年、スピナーズから誘われ、フィリップ・ウィンはスピナーズに加わった[4]。またファンカデリックを辞めたビリー・ネルソンの代わりのベーシストをさがしていたジョージ・クリントンも、後にパーレットのメンバーとなるマリア・フランクリンの紹介でブーツィーに声をかけた。結局ブーツィーはキャットフッシュとともに、ジョージ・クリントン率いるPファンクに参加した。Pファンクでは、ファンカデリック1972年発表のアルバム、『アメリカ・イーツ・イッツ・ヤング』で数曲ベースを弾いたが、Pファンクメンバーの薬物使用が頻繁だったためについていけず、また、ブーツィーにとってはファンカデリックの音楽はロックにより過ぎていたため、一時彼らと距離をおき、キャットフィッシュやキャッシュ・ワディらとともにコンプリート・ストレンジャーズ (Complete strangers) の名で地元でバンド活動をした。しかし、パーラメントが1974年に発表したアルバム、『アップ・フォー・ザ・ダウン・ストローク Up for the Down Stroke 』の録音には戻ってきて再びベースを弾いた。そして,親指と人差し指、および手のひら全体を使うスラップ奏法とオートワウ(エンヴェロープフィルター)を使い、その後の彼の代名詞ともなる新しいベースサウンドを生み出すことに成功した。パーラメント1975年発表のアルバム『チョコレート・シティ Chocolate City 』および『マザーシップ・コネクション Mothership Connection 』ではこの彼の新しいベース音を聞くことができる。さらに1975年には、JBズつながりでメイシオ・パーカー(サックス)、フレッド・ウェズリー(トロンボーン)らをPファンクに引き連れてきた。彼らはその後Pファンクに欠かせないホーン陣となった。
また、ジミ・ヘンドリックスのまねをして歌う「ブーツィーボイス」をファンカデリックが1975年に発表したアルバム、レッツ・テイク・イット・トゥー・ザ・ステージ収録の 『ビー・マイ・ビーチ Be My Beach 』で披露した。このブーツィーのヴォーカルとキャラクターを生かすため、1976年にキャットフィッシュ、フレッド、メイシオ、マッドボーン・クーパー(ボーカル)らとブーツィーズ・ラバー・バンドを結成した。バンドは「ストレッチン・アウト・イン」「アイド・ラザー・ビー・ウィズ・ユー」を発表した。ブーツィーは、星形のサングラスをかけ、星形の真っ白いベース(スペース・ベース)を弾き、また「キャスパー」、「ブーツィラ」、「スター・モン」、「ザ・カウント」などのキャラクターを演じる、ユーモアあふれるファンキーなステージアクトを繰り広げた。1984年にはトーキング・ヘッズのジェリー・ハリスンと共に、「ボンゾ・ゴーズ・トゥ・ワシントン」名義で、ロナルド・レーガンの暴言を揶揄する曲「ファイヴ・ミニッツ」をリリースした。[5]
1980年代後半になると、Pファンクの勢いは弱まり、ブーツィーも活動のペースを落とした。プレッシャーや、音楽以外のビジネス面での仕事が嫌で、故郷のシンシナティでゆっくりしていたという。しかしその後もソロアルバムを発表し続けた。1980年代後半から1990年代にはビル・ラズウェルのプロデュースのもと、ロックやハウス的な音楽をやるなど、活動の幅を広げた。セッション・ベーシストとしても活躍し、キース・リチャーズ『トーク・イズ・チープ』(1988年)[6]、久保田利伸『BONGA WANGA』(1990年)等に参加。2006年に最新アルバムを発表、最近では日本の若手インストゥルメンタル・バンドASTERISMの楽曲プロデュースを手掛けるなど(2018年)、2010年代も現役で活動中である。
ベースだけでなく、少し聞くだけで彼のものとわかる、甘くファンキーで目立つ「ブーツィーボイス」は、多くのミュージシャンから客演を求められている。ラスト・ポエッツ、スヌープ・ドッグ、ヴィクター・ウッテンなどのアルバムに参加し、彼独特のファンキーさを振りまいている。