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ブロニスワフ・ピオトル・ピウスツキ
人物情報
生誕 (1866-11-02) 1866年11月2日
ロシア帝国ズウフ(現 リトアニアヴィリニュス郡)
死没1918年5月17日(1918-05-17)(51歳)
出身校ペテルブルク大学
学問
研究分野文化人類学・民族学
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ブロニスワフ・ピオトル・ピウスツキ[注 1](ポーランド語: Bronis?aw Piotr Pi?sudski, herbu Pi?sudski
、リトアニア語: Bronislovas Petras Pilsudskis、ロシア語: Брони?слав Пётр Гиня?тович Косьче?ша Пилсу?дский、ベラルーシ語: Бран?сла? П?лсудзк?、1866年11月2日(ユリウス暦10月21日) ? 1918年5月17日頃)は、ロシア帝国生まれの文化人類学者、社会主義活動家。リトアニア首都ヴィリニュスから北東へ60km離れたシュヴェンチョニース(?ven?ionys, ポーランド語: ?wi?ciany, ベラルーシ語: Свянцяны, ロシア語: Свенчаны)郡のズウフ(Zalavas, ポーランド語: Zu?ow, ベラルーシ語: Вёска Зула?, Зулава, ロシア語: Зулов)(当時ロシア帝国に属していた)で没落したポーランド貴族の家に生まれる。ヴィリニュスで高等学校を中退。
1886年、ペテルブルク大学の法学部に入学。1887年、アレクサンドル3世暗殺計画に連座して懲役15年の判決を受け、サハリン(樺太)へ流刑となる。この時の処刑者には首謀者にしてウラジーミル・レーニンの兄アレクサンドル・ウリヤーノフがいた。
サハリンへ着くと、初めは大工として働き始めたが、その後、原住民の子供たちの「識字学校」を作ってロシア語や算術・算盤教育を始める。「識字学校」の教師の中には、日本と樺太アイヌの間に生まれた千徳太郎治がいた。その後警察の事務局員となり、ニヴフ(ギリヤーク)との交流が増えるようになる。ブロニスワフの弟で後にポーランド第二共和国初代国家元首となったユゼフ・ピウスツキ
1891年、同じく流刑されていた民族学者のレフ・シュテンベルクと知り合う。その後、ニヴフ文化研究及びニヴフ語辞書作成に没頭。
1896年5月14日、アレクサンドル3世の死後に行われた大赦により、懲役刑が15年から10年に減刑される。この年になるとアイヌとも接触するようになり、資料収集を行う。12月6日にはアレクサンドロフスキー岬で開館された博物館に資料を提供。翌1897年に刑期満了。
1899年にはウラジオストクへ渡り、翌1900年のパリ万国博覧会用の資料を提供する。1902年にアイヌとウィルタ(オロッコ)の調査のため樺太へ戻り、写真機と蝋管蓄音機を携えて資料収集を行う。同年農民身分となる。年末には、樺太南部にある集落・アイ(日本名:栄浜村相浜)で村長バフンケの姪チュフサンマ[1]と結婚し、一男[1]一女[2]をもうける。二人の子どもは第二次世界大戦後、北海道に移住した。彼らの子孫が現在も日本で生活しており、長男木村助造(1903年-1971年)の子孫はピウスツキ家唯一の男系子孫である。チュフサンマは晩年失明し、1936年1月に樺太で死去した。
その後もロシア語などをアイヌに教える一方でアイヌ、ウィルタ、ツングース族などの資料収集を行っていたが、日露戦争勃発後の1905年、バフンケに反対されたため家族を止む無く残して日本へ渡る。
1905年4月12日、「樺太アイヌ統治規定草案」(沿海地方国家歴史図書館蔵[注 2])を作成。
日本では亡命ロシア人による反皇帝組織を支援したり、二葉亭四迷、横山源之助、上田将、大隈重信、鳥居龍蔵、坪井正五郎、宮崎民蔵、片山潜らと交流。同年にアメリカ経由でポーランドへ戻る[3]。帰国後は、ヨーロッパ各地を転々としながら弟ユゼフらと文通を行い、亡命ポーランド人らと交流してポーランドの独立運動に携わる。その一方でロンドンの日英博覧会に出展された沙流アイヌから50話を採話する[4]など、アイヌ研究を続けた[5]。
1918年、第一次世界大戦終結を前にしてパリでセーヌ川に身を投げて自殺。遺書は無かったために動機は不明である。
死後の顕彰など
2013年10月19日、その功績を讃えられ、祖国のポーランド政府から白老町のアイヌ民族博物館に胸像が贈られた[6]。
2020年162回直木賞作品「熱源」で、ピウスツキと樺太アイヌとの交流についての記述がある。
少数民族の研究「村崎恭子」も参照樺太東海岸のアイ集落の長・バフンケ(日本語名・木村愛吉 1855?1920年)ブロニスワフ・ピウスツキは彼の姪、チュフサンマと結婚した[7]