ブレーメン
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ブレーメンは、ドイツの北西半分という比較的日照に恵まれない場所に位置しているにもかかわらず、近年、1961年から1990年と1981年から2010年を比較すると、年間日照時間が62時間増加しており、中でも4月5月、7月の日照時間が最も長くなっている[10]。この傾向は2000年に入ってから再び強まり、2001年から2015年の平均日照時間は1609時間で、1961年から1990年の基準期間より130時間近く長くなっている[11]。 しかし、ドイツのほぼすべての地域と同様、特に冬は非常に冴えず、日照時間が短く、12月の日照時間は1日平均1時間強である。の日照時間はドイツの平均よりやや少ないが、特には、まだ涼しい海がの発生を抑えてくれるため、内陸の地域より晴れる傾向がある。そのため、1981年から2010年の平均で、最も晴れた月は5月であり、多くの内陸の観測所のように7月ではない[12]

降水量は年間を通じて少なく、春はやや乾燥し、夏は雨の降る傾向がある。年間降水量の平均値は 693.9mm である。その大半が雨で、は比較的降らず年によって大きく異なる。積雪が数日しかない年もあるが、積雪が非常に長く続く年も常にある(最近では2010年の積雪が77日)[13]。1977年から2007年までの年平均積雪日数は19.3日で[14]1979年2月18日積雪量は68cmだった。これは第二次世界大戦以降、人口50万人以上のドイツの都市で観測された積雪量の最高記録でもある[15]
環境状況

キール大学世界経済研究所が2012年に実施した調査によると、ブレーメンは環境状況において都市リストの最下位にランクされた。環境資本という点では、主要100大都市中66位であった。大気の質(粒子状物質汚染、オゾン汚染、二酸化窒素汚染)、土地利用(居住地と輸送地の割合、自然地域の割合)、廃棄物管理(家庭ごみ量、リサイクル率)が記録されドイツ全土で比較された。粒子状物質とオゾン汚染については、二酸化窒素汚染とは対照的に、平均濃度ではなく、規制値を超えた日数が基準として用いられた。ブレーメン市の電気の大部分は化石燃料から発電されており、その結果、CO2排出量が相対的に多くなっていることを念頭に置く必要がある[16]

ブレーメンでは、1987年からブレーメン大気モニタリングシステム(BLUES)によって大気汚染物質が測定されている。道路騒音は、1977年に初めて記録され、環境情報システムは、自然保護地域や水質など、さまざまな分野の状況を詳細に記録している[17]
歴史ブレーメンのマルクト広場に建つブレーメンの象徴的建造物、ローラント像(中央)と市庁舎(右端)
中世

先史時代周辺に集落があったが、ブレーメンそのものにはその形跡は見られない。後の司教座所在地がザクセン人の祭祀の中心地であったかもしれない[18]

紀元150年アレクサンドリアの地理学者クラウディオス・プトレマイオスが入植地として記録している Phabiranumがブレーメンであると唱えられたこともある。

Bremenは9世紀/ 10世紀に≫in Brema≪、≫Bremon≪、≫Bremum≪と表記されているが、これは古ザクセン語の「縁、ふち、ヘリ」(>Rand<)を意味する≫bremo≪を地名としたもので、カロリング朝において、ドームブルク(Domburg)すなわち司教座聖堂+司教所在地(Dom und Bischofssitz)が砂丘あるいは川の縁に位置したことを指している[19]

司教座都市および商都としてのブレーメンの歴史は8世紀まで遡る[20]。この地はライン川からエルベ川、または北海から南ドイツに向かう交易の十字路に位置しているため、交易の要衝として重要視されるようになっていた。ブレーメンは787年カール大帝によって司教座都市に指定されたが、当初は不安定な宣教地であった。宣教師Willehadは782年に「... ブレーメンから追放され、2人の司祭は殺害された。」と記述している。

聖堂と司教座所在地は787年/789年以降防御施設を施された砂丘の上に存在した。その西側の市場開設地(Markt)と礼拝堂、それに小屋ないし家があった。砂丘の麓には船着き場、漁師や渡し船の船頭の集落があったものと思われる。交通の要衝であったことと重要な教会の存在が経済的繁栄をもたらした。888年の市場文書は、市場、貨幣鋳造、関税に関わる権利、937年オットー1世の文書は都市君主権の王から大司教への委譲を記している。ブレーメンはまた、9世紀-11世紀スカンディナヴィアおよびエルベ川東の地域の布教の中心地であった[21]。なお、ハンブルク845年 ヴァイキングにより攻略されたため、そこにあった司教座はブレーメンに移された[22]

845年大司教区に昇格した後、アーダルベルト・フォン・ブレーメン大司教の下(1043年から1072年)、最初の隆盛を経験した。神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)は1186年にブレーメンを帝国都市(一般には自由帝国都市と呼ばれる)としたが、帝国直轄とはしなかった。

ハインリヒ獅子公ザクセン公として、ブレーメン市に対する大司教の影響力を低下させようと1154年1167年に市を占領した。公が市に都市法(Stadtrecht)を授けた可能性はあるが、証拠はない。公の失墜後、市民は独自の政策を実行した。フリードリヒ1世1186年ゲルンハウゼン特権(Gernhauser Privileg)において、不自由な荘園農民が入市後1年と1日経って旧領主の追求がなければ自由民となる権利(Freiheit der Leibeigenen nach Jahr und Tag)を認めた。その後も市は、大司教または王から商業上の特権や裁判上の特権を付与されている。1229年の史料には市壁が言及されている。Consules(助言者)と呼ばれる役職は1225年に初めて見られる。1229年に市庁舎が生まれる。ブレーメンは都市紋章を有し、外部と契約を締結するようになる。宗教施設が増加し、富裕市民の邸宅に塔が建ち、ヴェーザー川に橋が架けられる[23]

1260年に都市ハンザが形成され、1358年ハンザ同盟に加盟した。加盟当初は力のない同盟都市に過ぎなかったが、これ以後急速に経済力、政治力をつけ、ブレーメン大司教の世俗支配をはねのけるまでに成長した。その自由な気風の象徴としてローラント像(1404年)や市庁舎(1409年)がマルクト広場沿いに建設された。郷土愛あふれる市年代記(Bremer Chronik)や市の諸特権を保証する偽文書の作成も行われた[24]。1400年頃「ブレーメンの人口は恐らく2万であった」(エーディト・エネン)[25]。その間、14世紀 ヨーロッパに大災害をもたらした黒死病(ペスト)によってブレーメンの人口も大きな打撃を受けていた。1350年にドイツに入った第1回の流行によって、「ブレーメンで市民帳によって名前がわかるだけでも、6966人がたおれたという。おそらく市民の半数前後の被害者をだしたのだろう」(今来陸郎)[26]。ペストの流行によって減少した人口は周辺地域からの移住者によって補充された[24]

1510年頃にはじめて出版されたドイツの民衆本『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』、その70話と72話は、ブレーメンを舞台にしているが、語り手はブレーメンについて、「町の人も彼(ティル)をことのほか贔屓にして、いたずらゆえに引きとめるといった土地柄」(藤代幸一訳)と述べている[27]。また、87話では、ブレーメンの司教は「ティルを気晴らしの相手として、ご贔屓にしておりました」(藤代幸一訳)と語られている[28]1641年のブレーメン絵図。画面下がヴェーザー川左岸に建設された新市街。防衛施設が築かれているのが分かる。
16-18世紀

1574年から1590年に建設されたヴェーザー港を防衛するため、ヴェーザー川左岸に防衛施設を有する新市街が建設された。また、13世紀に洪水防止用堤防として現在のシュラハテが設けられて以降、ヴェーザー川に砂が堆積するようになり、ブレーメン商人の貿易船は着岸が困難となった。この状況を改善するため、1619年から1623年に下流のフェーゲザックにオランダ人建築家によってドイツ初の人工港が設けられた。


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