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1623年、フランス中部のクレルモンにおいて、徴税の仕事をする行政官を父として生まれた。二人の姉妹がおり、その内の一人のジャクリーヌとは非常に仲が良く、この世で一番愛していたともいわれる[1]。 パスカルは幼少の頃から天才ぶりを発揮していた。例外の多い語学への影響を懸念した父親によって数学から遠ざけられていたが、まだ10歳にもならない頃に、三角形の内角の和が二直角である事や、1からnまでの和が(1+n)n/2である事を自力で証明して見せたと言われている。歯車式計算機「パスカリーヌ」 パスカルが少年の時に、教育熱心な父親は一家を引き連れパリに移住する。パスカルは学校ではなく、家庭で英才教育を受けた。父親は自然哲学やアマチュア科学をたしなんでおり、その知識をパスカルに授けた。しかも、自宅には当時の一流の数学者や科学者が頻繁に出入りし、自宅は一種の「サロン」や「サークル」の状態になっており、彼はそうした大人たちの集いにも顔を出し、様々な知識を吸収することも出来、大人たちと討論したり思索を深めたりすることで、その才能が本格的に開花した。 1640年、16歳の時に、『円錐曲線試論』を発表。 17歳の時には、機械式計算機の構想・設計・製作に着手し、それを見事に2年後に完成させた。これによって、父親の徴税官の(計算の)仕事を楽にしようとしたのだ、とも言われている。またこの計算機の設計・製作に過度に没頭したことが、パスカルの肉体を傷め、病弱となり、寿命を縮める原因のひとつとなった、とも言われている。 等々。 1646年、パスカル一家はサン・シラン 1651年、父が死去。妹ジャクリーヌがポール・ロワヤル修道院に入る。 パスカルは一時期、社交界に出入りするようになり、人間についての考察に興味を示す。オネットムhonnete homme(紳士,教養人)という表現を用いる。 1654年、再度、信仰について意識を向け始め、ポール・ロワヤル修道院に近い立場からものを論ずるようになる。 1656年 - 1657年、『プロヴァンシアル』の発表。神の「恩寵」について弁護する論を展開しつつ、イエズス会の(たるんでしまっていた)道徳観を非難したため、広く議論が巻き起こった。
数学、自然哲学への才能の早熟
その他の数学、自然哲学の業績パスカルの三角形
「パスカルの定理」
「パスカルの三角形」Traite du triangle arithmetique(1655年発表)
「確率論」の創始 (賭け・賭博についての考察より)
サイクロイドの求積問題。
「パスカルの原理」(流体の平衡についての理論)の提唱(力学、物理学における圧力の単位、パスカルに名を残している)
神学者、キリスト教弁証家として活動