ブレトワルダ
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しかしながら20世紀の後半にはこのような見解に果敢に挑む者[3]が現れ、最近の解釈では、ブレトワルダの定義を厳密化する傾向にはない。今ではこの語を、9世紀の年代記の編纂者たちがどのようにそれまでの歴史を解釈し、自らの王をどのように組み込んだかを示す重要な指標としての観点から捉えている。
宗主権

何をもって宗主としたかは複雑で、様々な支配と服従の形があった。例えばアングロサクソン社会において、ある王が別の王国を支配下にした場合、それが例えばマーシア王がイースト・アングリアを支配下に置いた時のような場合は、両国の立場は対等であったが、もし、大国マーシアが小国ウィッチェを支配下にした時のように、それが小さな国を支配した場合には必ずしもそうとは言えなかった。7世紀8世紀を通じてマーシアの勢力はアングロサクソン社会の中で最強であったが、ベーダの記した覇王の列記にはマーシア王は載せられてはいない。ベーダにとってマーシアは自分の故国ノーサンブリアの敵であり、また彼は(異教の)ペンダのようなアングロサクソンに有利に展開していた事も知っていた。そのために実際はペンダが覇王と呼ぶべき力を有していたのにもかかわらず、自らの著作の列記の中でその名を記す事はなかった。同様にウェセックス王のアングロサクソン社会での正当性を正当化するために綴られた(アングロサクソン年代記の中にある)西サクソン王族系譜目録からも強大なマーシア王であったオファも除外されている。
アングロサクソン年代記とベーダの著作に書かれたブレトワルダ

エール (サセックス王)

チェウリン (ウェセックス王)

エゼルベルト (ケント王)

レドワルド (イースト・アングリア王)

エドウィン (ノーサンブリア王)

オスワルド (ノーサンブリア王)

オスウィ(ノーサンブリア王)


エグバート (ウェセックス王):アングロサクソン年代記のみ羅列

脚注^ しかしながらベーダが自らの著作『イングランド教会史』において、列記した王を「ブレトワルダ」とは呼んでいない。単に「インペリウムを保持した」人物として王の名を記述している。
^ 20世紀の史家フランク・ステントン(Frank Stenton)はアングロサクソン年代記を称して「年代記を書いた者たちの残した不正確さは、このような際立つ王たちに名づけられた英語の称号を残すために辻褄を合わせた以上の功績を後世にもたらした」と語り、ブレトワルダという用語は「最古のイングランド独自の社会制度がゲルマン起源のものであるという他の証拠を後押ししている」と書き残している。
^ 1995年にサイモン・ケイン(Simon Keyne)は「ベーダの書いた宗主と年代記のブレトワルダが人工的な用語で、この概念が記された文書以外には現実的に実在していなかったとするならば、現代の我々は文書に書かれた歴史の経緯をめぐる憶測問答から逃れうる事ができるだろう。しかし今度は我々は8世紀、9世紀の王たちが覇を唱える事に熱心であったかどうかという事に憶測に終始している事だろう。」と記している。


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