制限主権論(せいげんしゅけんろん;ロシア語: Доктрина ограниченного суверенитета, ダクタリーナ・アグラニーチェナバ・スヴェリニチエタ)とは、中央ヨーロッパおよび東ヨーロッパにおけるソ連の影響力が強い国において、「『社会主義制度の崩壊』の脅威はすべての国々に対する脅威である」とし、その国に対する軍事介入を正当化するソ連の外交政策である。1968年8月20日の深夜、ソ連が主導するワルシャワ条約機構加盟国による連合軍がチェコスロヴァキアに軍事侵攻し、翌日の朝までにチェコスロヴァキア全土を占領し、これを正当化するために用いられた[1]。「ブレジネフ・ドクトリン」(Доктрина Брежнева)とも呼ばれる。
1968年6月27日、ソ連の外務大臣、アンドレイ・グロムイコ(Андрей Громыко)は、ソ連最高会議の場において、「社会主義連邦は、その構成国家のいずれかが連邦から離脱しようとする場合、それを容認しない」と発表した[2][3]。 1968年1月5日、チェコスロヴァキア社会主義共和国において、アレクサンデル・ドゥプチェク(Alexander Dub?ek)が党中央委員会第一書記(1953年から1971年までは「チェコ共和国共産党中央委員会第一書記」と呼ばれた)に就任した[4]。ドゥプチェクは、「社会主義が勝利を収めたのち、社会の変革が始まる」と宣言した。これは「人間の顔をした社会主義」(Socialismus s lidskou tva?i)と呼ばれ、政治や経済における自由化計画の開始であった。その中には、消費者産業に有利な経済の自由化のみならず、報道の自由、表現の自由、移動の自由、宗教の自由、検閲の廃止、複数政党制の導入も含まれ、ドゥプチェクは国の政治体制の改革を推進しようとした。これは「プラハの春」(Pra?ske Jaro)と呼ばれた。「人間の顔をした社会主義」なる用語は、チェコの社会学者および哲学者、ラドヴァン・リヒタ
「プラハの春」
1968年9月26日、ソ連の新聞『プラーヴダ』(Правда)は、「社会主義諸国の主権と国際的義務について」と題した記事を掲載した。署名したのはセルゲイ・コバリョフ
(ロシア語版)であった。この記事では、「社会主義諸国における社会主義制度を改善するにあたっての具体的な措置を取ることについては誰も干渉はしない。しかしながら、いずれかの国における社会主義体制そのものが危険に晒されれば、状況は根本から変わる。社会制度としての世界社会主義は、すべての国の労働人民にとっての共通の成果であり、不可分のものであり、その防衛は、地球上の全ての共産主義者、すべての進歩的人民、社会主義諸国の労働人民にとっての共通の大義である」と記述された[13]。この記事に書かれた内容は、社会主義圏諸国における国家の主権を制限し、必要とあらば軍事力の行使も辞さない政策である「社会主義諸国における主権の制限」、のちに「ブレジネフ・ドクトリン」(Доктрина Брежнева)と呼ばれることになった[14]。1968年11月12日に開催されたポーランド統一労働者党第5回党大会に出席したレオニード・ブレジネフ(Леонид Брежнев)は以下のように演説した。