ブレジネフ・ドクトリン
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「プラハの春」は、「国民にある種の自由を提供しよう」という政策であった[6]。ソ連はワルシャワ条約機構加盟国とともに、チェコスロヴァキアと何度も交渉を重ねたが、ドゥプチェクは「人間の顔をした社会主義」を撤回しようとはしなかった。1968年8月20日の午後11時、「ドナウ作戦」(Oпера?ция ≪Дуна?й≫)と名付けられた軍事侵攻が展開され[7]、ワルシャワ条約機構の連合軍が国境を越えてチェコスロヴァキアへなだれ込んだ。ソ連が指揮し、主導したワルシャワ条約機構の軍隊が、ドゥプチェクが実施しようとした自由化の改革を阻止・鎮圧するため、チェコスロヴァキアに侵攻するに至った[8]1968年10月16日、チェコ共和国共産党の指導部は協定に署名し[9]、ソ連軍がチェコスロヴァキアの領土内に駐留することが決まった。占領軍の存在については、「チェコスロヴァキアにおける社会主義体制に対する新たな脅威と社会主義の共同体の国々の安全に対する脅威が去り次第、チェコスロヴァキアの領土から同盟軍の段階的撤退が行われる」とされた[10]。モスクワ協定(スロバキア語版)の第5項には、「同盟国の軍隊およびその他の機関は、チェコスロヴァキアの内政には干渉しない。チェコスロヴァキアにおける社会主義の建設と社会主義共同体の安全に対する新たな脅威が消え次第、チェコスロヴァキアの領土から同盟軍の段階的撤退が実施されるであろう」と明記された[11]1991年6月27日、ソ連は最後の部隊を撤退させ、チェコスロヴァキアの領土内におけるソ連軍の23年間の「一時的」な駐留に終止符が打たれた[12]
「ブレジネフ・ドクトリン」

1968年9月26日、ソ連の新聞『プラーヴダ』(Правда)は、「社会主義諸国の主権と国際的義務について」と題した記事を掲載した。署名したのはセルゲイ・コバリョフ(ロシア語版)であった。この記事では、「社会主義諸国における社会主義制度を改善するにあたっての具体的な措置を取ることについては誰も干渉はしない。しかしながら、いずれかの国における社会主義体制そのものが危険に晒されれば、状況は根本から変わる。社会制度としての世界社会主義は、すべての国の労働人民にとっての共通の成果であり、不可分のものであり、その防衛は、地球上の全ての共産主義者、すべての進歩的人民、社会主義諸国の労働人民にとっての共通の大義である」と記述された[13]。この記事に書かれた内容は、社会主義圏諸国における国家の主権を制限し、必要とあらば軍事力の行使も辞さない政策である「社会主義諸国における主権の制限」、のちに「ブレジネフ・ドクトリン」(Доктрина Брежнева)と呼ばれることになった[14]

1968年11月12日に開催されたポーランド統一労働者党第5回党大会に出席したレオニード・ブレジネフ(Леонид Брежнев)は以下のように演説した。ソ連は、社会主義諸国の主権と独立を真に強化するために多大な貢献を果たして参りました。我が党は、それぞれの社会主義国家の事情を考慮し、社会主義の理論に沿った発展の具体的な形態の決定を提唱して参りました。しかしながら、同志諸君、社会主義建設にあたっての一般法則が存在し、そこからの逸脱は社会主義そのものからの逸脱につながりかねないことはご存じでしょう。そして、社会主義に敵対する内外の勢力によって社会主義国の発展が資本主義制度に傾くとき、その国の社会主義の大義に対する脅威や社会主義の共同体の安全に対する脅威が見られるとき、全体として、これはその国の人民だけの問題ではなく、すべての社会主義国にとっての共通の厄介事であり、懸念事項となるのです[15][16]

この政策は、チェコスロヴァキアへの軍事侵攻についてイデオロギーの側面で正当化するものとなった[17]

ポーランド統一労働者党第一書記、ヴワディスワフ・ゴムウカ(W?adys?aw Gomu?ka)は、アレクサンデル・ドゥプチェクと、「人間の顔をした社会主義」計画を嫌っていた。歴史家のウカス・カミンスキー(ポーランド語版)によれば、1968年7月、ポーランドの政治局での会議にて、ゴムウカが「ブレジネフが軍事介入を躊躇している」様子に不満を漏らしており、「場合によってはポーランドが軍事作戦を実行する用意がある」と発言した記録が残っている、という。「もちろん、それは現実的ではないが、当時のポーランドの指導者がいかなる立ち位置にあったか、を示している」と指摘した[18]。また、カミンスキーは「ブレジネフ・ドクトリン」について、『ゴムウカ・ブレジネフ・ドクトリン』と呼ぶべきだ」と述べた[18]

モスクワのソ連共産党指導部は、チェコスロヴァキアの共産指導者たちがモスクワから独立した国内政策を追求した場合、ソ連がチェコスロヴァキアに対する支配力を失う可能性を恐れた。このような事態の展開は、東ヨーロッパにおける社会主義圏を、政治的にも軍事戦略的にも分裂させる恐れがあった[14]。ソ連共産党指導部は、チェコスロヴァキアで起こりつつある変化について、社会主義およびワルシャワ条約機構にとって大いなる脅威である、と判断していた[19]。チェコスロヴァキアがソ連の影響下から脱却した場合、ソ連の他の衛星国もこの流れに追随し、そうなれば、ソ連は「外堀」を失う危険性があった。西側諸国およびNATOがソ連に侵攻するとなれば、ポーランド、チェコスロヴァキア、東ドイツといったソ連の衛星国を通過する必要があり、「外堀」とはこれらの衛星国を意味した。チェコスロヴァキアが西側諸国で見られるような政策を実施し、NATOにも加盟した場合、チェコスロヴァキアの東部に核兵器戦術および戦略)が配備される可能性が生じることになり、そのような事態はソ連にとって安全保障上の政治的脅威となりうるものであり、到底容認できる状況ではなかった[19]9月9日に実施される予定の党大会で、チェコスロヴァキア全土から代表者が集まり、特定の多数派が勝利する事態を想定したソ連は、何としてでもそのような事態を阻止せねばならず、成り行きに任せるわけにはいかなかった。1968年4月の時点で、ソ連は最後の手段として、チェコスロヴァキアへの軍事介入を計画していた[20]1968年4月12日、モスクワでは、「必要に応じて、作戦名『ドナウ作戦』を実行に移さねばならない」との決定が下された[5]。ソ連の陸軍大将、アレクセイ・イェーピシェフ(ロシア語版)は、「社会主義の大義に献身的なチェコスロヴァキアの共産主義の同志たちが、ソ連や他の社会主義国家に対し、社会主義を防衛するための支援を求めるつもりならば、ソ連軍にはその国家間の義務を果たす用意がある」と発言した[5]

ウクライナ共産党(ウクライナ語版)第一書記、ペトロ・シェレストは、軍事介入を積極的に支持した人物の一人であった。彼は、「チェコスロヴァキアは西ウクライナに反社会主義思想の毒を感染させる可能性がある」と発言した[21]

1980年代の時点で、ソ連は深刻な経済問題と深刻な食糧不足に直面していた。1985年にソ連の指導者となったミハイル・ゴルバチョフ(МихаипBГорбачев)は、「グラースノスチ」「ペレストロイカ」と呼ばれる改革政策を導入したが、事態の深刻さはゴルバチョフが予想していた以上に急速に進行していた[22]

1988年の秋、ゴルバチョフはニューヨークを訪問し、連合国の会議の場で「ブレジネフ主義を廃止する」趣旨を述べ、「我々は東ヨーロッパにおける社会主義勢力を維持するつもりは無い」と宣言した。ソ連国家保安委員会の分析総局長で中将のニコライ・セルゲーエヴィチ・レオーノフ(ロシア語版)によれば、「『ブレジネフ・ドクトリン』はかなり早くに廃止されたが、ソ連にはもはやこれを実行するだけの力が無いことを理知的な人々が理解していたからだ」という[23]


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