ブレジネフ・ドクトリン
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「1968年のチェコスロヴァキアに対する軍事介入は、主権国家に対する内政干渉であり、非難されなければならない」「国家間の関係において、国家の主権と独立の原則は厳格に尊重されるべきである。極めて複雑な国際情勢においても、それがいかに重要であるかは歴史が証明している」[25][26][27]

この首脳会議にはルーマニアも参加したが、ルーマニアは1968年8月の軍事侵攻には参加しなかったため、この共同宣言には署名しなかった[25]。この首脳会議に出席したルーマニアの共産指導者、ニコラエ・チャウシェスク(Nicolae Ceau?escu)はソ連に対し、東ヨーロッパおよび中央ヨーロッパのすべての国々、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ポーランド、ドイツからソ連軍を撤退させるよう要求した[25]

1979年、ソ連がアフガニスタンに軍事侵攻した際、アフガニスタンにおける反ソ連の抵抗勢力は外国から多大な援助を受けており、ソ連には首都を制圧できなかった。アフガニスタンの軍事情勢は「ゴルバチョフ・ドクトリン」の台頭の原因となり、「撤退しない」との意見は不利になった。対ゲリラ訓練を実行しなかった点を含め、アフガニスタンでの任務におけるソ連軍の準備が不十分であったため、ソ連軍は弱体化した。モスクワは、紛争は軍事では解決できないことに気付いた。ミハイル・ゴルバチョフは軍事介入を支持しなかった[28]

1991年1月13日リトアニアヴィリニュスにソ連が軍事侵攻し[29][30]、少なくとも14人がソ連軍に殺された[31][32]1990年3月11日、リトアニア共和国最高評議会はリトアニア国家の独立の回復を宣言した。ソ連はリトアニアの決定に対し、軍事力による威嚇と誇示を続けた[31]1991年1月10日、ミハイル・ゴルバチョフはリトアニア共和国最高評議会に最後通牒の書簡を送り、1990年3月11日以前の状態に戻すよう要求したが、リトアニア共和国最高評議会はゴルバチョフの要求を拒否した[31]

2019年3月、リトアニアの裁判所は、1991年の軍事侵攻で行われた犯罪で、ソ連軍の将校やソ連当局者67人に対し、「戦争犯罪および人道に対する罪」を理由として有罪判決を下した[33]。ロシアが法廷への協力を拒否したことで欠席した一名を除いて、全員に懲役刑が宣告された[32]。しかしながら、ロシアとベラルーシは容疑者の引き渡しを拒否し、被告人の大半は法廷に出廷せず、欠席裁判となったため、彼らの刑が執行される可能性は極めて低い[34]。ゴルバチョフは起訴されなかったが、証言については拒否し続けている。また、ゴルバチョフに対する民事訴訟は続いており、「軍を指揮する立場にあったゴルバチョフは、流血の事態を防ぐにあたり、何もしようとしなかった」と明記された[33]

リトアニア人の心理学者、ロベルタス・ポヴィライティス(Robertas Povilaitis)は、1991年1月の軍事侵攻で父親をソ連軍に殺された。ロベルタスは「世界は彼の善行を記憶しているが、それと同じくらい重要なのは、ゴルバチョフが戦争犯罪と人道に対する罪に関与したことだ」とゴルバチョフを非難した[33]2022年8月30日、ミハイル・ゴルバチョフは死んだ。その後、欧州委員会委員長のウルズラ・フォン・デア・ライエン(Ursula von der Leyen)はゴルバチョフについて「信頼と尊敬を集める指導者」と呼んだ。これについて、ポヴィライティスは「リトアニア、ラトヴィア、エストニアは、EUの正式な加盟国であるにもかかわらず、この男が現在のEU国民の虐殺の組織化に加担したということについて、彼女はまるで理解できていない」と非難している[35]。リトアニアの国防大臣、アルヴィダス・アヌサウスカス(Arvydas Anusauskas)は、「平和的抗議活動に対し、容赦の無い弾圧を命じた犯罪者だ」と断じ、ゴルバチョフを非難した[35]。リトアニアの外務大臣、ガブリエリウス・ランズベルギス(Gabrielius Landsbergis)は、「リトアニア人はゴルバチョフを美化することはないだろう」「ゴルバチョフ政権は我が国の占領を延長するために民間人を殺害した。この事実だけをもってしても、決して忘れることはない」「ゴルバチョフの軍隊は、非武装の抗議参加者たちに発砲し、戦車の下敷きにして押し潰した。ゴルバチョフのことを思い出す際には、このことを忘れない」と書いた[35]

この軍事侵攻について、ゴルバチョフは「リトアニア政府に責任がある」と非難した[30]

1991年1月の侵攻当時、リトアニアの当局者は、「ソ連軍による襲撃は、民主的に選出されたリトアニア政府を叩き潰すために綿密に計画された作戦であり、その計画の概要について、ミハイル・ゴルバチョフは事前に知っていた、と確信している」と明言した[36]。欧州外交問題評議会(英語版)の上級政策研究員、カドリ・リーク(エストニア語版)は「ゴルバチョフはバルト三国の独立には反対していた」と述べた[37]

ボリス・イェリツィン(Борис Ельцин)は、ソ連軍によるリトアニアへの侵攻を強く非難した。1991年9月7日、ロシアの大統領に選出されたイェリツィンは、リトアニア、エストニア、ラトヴィアの独立を正式に承認した[32]

リトアニア当局は、1992年以来、ゴルバチョフから何度となく証言を得ようとしたが、検察庁や裁判所からの正式な要請であっても無視・拒否された。ゴルバチョフは証言を拒否し続けた[34]

2014年5月、欧州委員会委員長のジョゼ・マヌエル・バローゾ(Jose Manuel Barroso)は、ウクライナで起こりつつある出来事について触れ、「主権制限論の原則は歴史の本に載せるべきだ」と述べた。「モスクワの外交政策が、ブレジネフの時代のそれに回帰した」と認識された[16]


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