ブレジネフ・ドクトリン
[Wikipedia|▼Menu]
1990年の時点でも、数十万人規模のソ連軍が東ヨーロッパに残っていた[24]

1989年12月4日、ワルシャワ条約機構に加盟する国々による首脳会議がモスクワで開催された。この会議で、ブルガリア、東ドイツ、ポーランド、ハンガリー、ソ連の首脳による共同宣言が採択された。

「1968年のチェコスロヴァキアに対する軍事介入は、主権国家に対する内政干渉であり、非難されなければならない」「国家間の関係において、国家の主権と独立の原則は厳格に尊重されるべきである。極めて複雑な国際情勢においても、それがいかに重要であるかは歴史が証明している」[25][26][27]

この首脳会議にはルーマニアも参加したが、ルーマニアは1968年8月の軍事侵攻には参加しなかったため、この共同宣言には署名しなかった[25]。この首脳会議に出席したルーマニアの共産指導者、ニコラエ・チャウシェスク(Nicolae Ceau?escu)はソ連に対し、東ヨーロッパおよび中央ヨーロッパのすべての国々、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ポーランド、ドイツからソ連軍を撤退させるよう要求した[25]

1979年、ソ連がアフガニスタンに軍事侵攻した際、アフガニスタンにおける反ソ連の抵抗勢力は外国から多大な援助を受けており、ソ連には首都を制圧できなかった。アフガニスタンの軍事情勢は「ゴルバチョフ・ドクトリン」の台頭の原因となり、「撤退しない」との意見は不利になった。対ゲリラ訓練を実行しなかった点を含め、アフガニスタンでの任務におけるソ連軍の準備が不十分であったため、ソ連軍は弱体化した。モスクワは、紛争は軍事では解決できないことに気付いた。ミハイル・ゴルバチョフは軍事介入を支持しなかった[28]

1991年1月13日リトアニアヴィリニュスにソ連が軍事侵攻し[29][30]、少なくとも14人がソ連軍に殺された[31][32]1990年3月11日、リトアニア共和国最高評議会はリトアニア国家の独立の回復を宣言した。ソ連はリトアニアの決定に対し、軍事力による威嚇と誇示を続けた[31]1991年1月10日、ミハイル・ゴルバチョフはリトアニア共和国最高評議会に最後通牒の書簡を送り、1990年3月11日以前の状態に戻すよう要求したが、リトアニア共和国最高評議会はゴルバチョフの要求を拒否した[31]

2019年3月、リトアニアの裁判所は、1991年の軍事侵攻で行われた犯罪で、ソ連軍の将校やソ連当局者67人に対し、「戦争犯罪および人道に対する罪」を理由として有罪判決を下した[33]。ロシアが法廷への協力を拒否したことで欠席した一名を除いて、全員に懲役刑が宣告された[32]。しかしながら、ロシアとベラルーシは容疑者の引き渡しを拒否し、被告人の大半は法廷に出廷せず、欠席裁判となったため、彼らの刑が執行される可能性は極めて低い[34]。ゴルバチョフは起訴されなかったが、証言については拒否し続けている。また、ゴルバチョフに対する民事訴訟は続いており、「軍を指揮する立場にあったゴルバチョフは、流血の事態を防ぐにあたり、何もしようとしなかった」と明記された[33]

リトアニア人の心理学者、ロベルタス・ポヴィライティス(Robertas Povilaitis)は、1991年1月の軍事侵攻で父親をソ連軍に殺された。ロベルタスは「世界は彼の善行を記憶しているが、それと同じくらい重要なのは、ゴルバチョフが戦争犯罪と人道に対する罪に関与したことだ」とゴルバチョフを非難した[33]2022年8月30日、ミハイル・ゴルバチョフは死んだ。その後、欧州委員会委員長のウルズラ・フォン・デア・ライエン(Ursula von der Leyen)はゴルバチョフについて「信頼と尊敬を集める指導者」と呼んだ。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:61 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef