ブレジネフ・ドクトリン
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1968年11月12日に開催されたポーランド統一労働者党第5回党大会に出席したレオニード・ブレジネフ(Леонид Брежнев)は以下のように演説した。ソ連は、社会主義諸国の主権と独立を真に強化するために多大な貢献を果たして参りました。我が党は、それぞれの社会主義国家の事情を考慮し、社会主義の理論に沿った発展の具体的な形態の決定を提唱して参りました。しかしながら、同志諸君、社会主義建設にあたっての一般法則が存在し、そこからの逸脱は社会主義そのものからの逸脱につながりかねないことはご存じでしょう。そして、社会主義に敵対する内外の勢力によって社会主義国の発展が資本主義制度に傾くとき、その国の社会主義の大義に対する脅威や社会主義の共同体の安全に対する脅威が見られるとき、全体として、これはその国の人民だけの問題ではなく、すべての社会主義国にとっての共通の厄介事であり、懸念事項となるのです[15][16]

この政策は、チェコスロヴァキアへの軍事侵攻についてイデオロギーの側面で正当化するものとなった[17]

ポーランド統一労働者党第一書記、ヴワディスワフ・ゴムウカ(W?adys?aw Gomu?ka)は、アレクサンデル・ドゥプチェクと、「人間の顔をした社会主義」計画を嫌っていた。歴史家のウカス・カミンスキー(ポーランド語版)によれば、1968年7月、ポーランドの政治局での会議にて、ゴムウカが「ブレジネフが軍事介入を躊躇している」様子に不満を漏らしており、「場合によってはポーランドが軍事作戦を実行する用意がある」と発言した記録が残っている、という。「もちろん、それは現実的ではないが、当時のポーランドの指導者がいかなる立ち位置にあったか、を示している」と指摘した[18]。また、カミンスキーは「ブレジネフ・ドクトリン」について、『ゴムウカ・ブレジネフ・ドクトリン』と呼ぶべきだ」と述べた[18]

モスクワのソ連共産党指導部は、チェコスロヴァキアの共産指導者たちがモスクワから独立した国内政策を追求した場合、ソ連がチェコスロヴァキアに対する支配力を失う可能性を恐れた。このような事態の展開は、東ヨーロッパにおける社会主義圏を、政治的にも軍事戦略的にも分裂させる恐れがあった[14]。ソ連共産党指導部は、チェコスロヴァキアで起こりつつある変化について、社会主義およびワルシャワ条約機構にとって大いなる脅威である、と判断していた[19]。チェコスロヴァキアがソ連の影響下から脱却した場合、ソ連の他の衛星国もこの流れに追随し、そうなれば、ソ連は「外堀」を失う危険性があった。西側諸国およびNATOがソ連に侵攻するとなれば、ポーランド、チェコスロヴァキア、東ドイツといったソ連の衛星国を通過する必要があり、「外堀」とはこれらの衛星国を意味した。チェコスロヴァキアが西側諸国で見られるような政策を実施し、NATOにも加盟した場合、チェコスロヴァキアの東部に核兵器戦術および戦略)が配備される可能性が生じることになり、そのような事態はソ連にとって安全保障上の政治的脅威となりうるものであり、到底容認できる状況ではなかった[19]9月9日に実施される予定の党大会で、チェコスロヴァキア全土から代表者が集まり、特定の多数派が勝利する事態を想定したソ連は、何としてでもそのような事態を阻止せねばならず、成り行きに任せるわけにはいかなかった。1968年4月の時点で、ソ連は最後の手段として、チェコスロヴァキアへの軍事介入を計画していた[20]1968年4月12日、モスクワでは、「必要に応じて、作戦名『ドナウ作戦』を実行に移さねばならない」との決定が下された[5]。ソ連の陸軍大将、アレクセイ・イェーピシェフ(ロシア語版)は、「社会主義の大義に献身的なチェコスロヴァキアの共産主義の同志たちが、ソ連や他の社会主義国家に対し、社会主義を防衛するための支援を求めるつもりならば、ソ連軍にはその国家間の義務を果たす用意がある」と発言した[5]

ウクライナ共産党(ウクライナ語版)第一書記、ペトロ・シェレストは、軍事介入を積極的に支持した人物の一人であった。彼は、「チェコスロヴァキアは西ウクライナに反社会主義思想の毒を感染させる可能性がある」と発言した[21]

1980年代の時点で、ソ連は深刻な経済問題と深刻な食糧不足に直面していた。1985年にソ連の指導者となったミハイル・ゴルバチョフ(МихаипBГорбачев)は、「グラースノスチ」「ペレストロイカ」と呼ばれる改革政策を導入したが、事態の深刻さはゴルバチョフが予想していた以上に急速に進行していた[22]

1988年の秋、ゴルバチョフはニューヨークを訪問し、連合国の会議の場で「ブレジネフ主義を廃止する」趣旨を述べ、「我々は東ヨーロッパにおける社会主義勢力を維持するつもりは無い」と宣言した。ソ連国家保安委員会の分析総局長で中将のニコライ・セルゲーエヴィチ・レオーノフ(ロシア語版)によれば、「『ブレジネフ・ドクトリン』はかなり早くに廃止されたが、ソ連にはもはやこれを実行するだけの力が無いことを理知的な人々が理解していたからだ」という[23]1980年ラウル・カストロ(Raul Castro)がモスクワに招待された際、「ソ連はキューバのために戦うことは無いだろう」と言われ、ラウルはこの回答に唖然とした。1981年、ポーランドにて、反共主義組織の独立自主管理労働組合「連帯」が結成された際、ヴォイチェフ・ヤルゼルスキ(Wojciech Jaruzelski)は「戒厳令を布告するつもりなのですが、ソ連はこれを支持しますか?」と尋ねた。これに対し、ミハイル・スースロフ(МихаипBСуслов)は「我が国はそちらに軍事支援を提供することはできない」と答えた。レオーノフによれば、ゴルバチョフがニューヨークにて前述の声明を発表した時点で、「ブレジネフ・ドクトリンはもはや放棄されていたのだ」という[23]

1989年12月2日から12月3日にかけて、ゴルバチョフとジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ(George Herbert Walker Bush)が会談を行った際、ゴルバチョフは「我々としては、平和的な変化を支持しており、干渉するつもりはありません。将来の意思決定の過程にも干渉はしません。その国の国民自身がどうするのかを、外部からの干渉無しで決めさせるのです」と述べた[16]

ゴルバチョフ自身は、早い段階で軍事介入政策を放棄するつもりであったが、公の場でそれの放棄を見せることについては曖昧な姿勢を取った[24]タデウシュ・マゾヴィエツキ(Tadeusz Mazowiecki)によれば、「1988年8月の時点で、ゴルバチョフが介入してくるとは誰も考えていなかった」という。しかし、深刻な懸念はあった。ソ連が経済的圧力をかけてくる可能性、エーリッヒ・ホーネッカー(Erich Honecker)や他の同盟国がどのような行動に出るか、そして、「ゴルバチョフが生き残れなかった場合はどうなるだろうか」というものであった[24]。1985年以降、ソ連は社会主義陣営の内部の変化に対する介入と厳格な管理という様式を徐々に放棄していった。1980年代後半の時点で、ソ連には同盟国を軍事力で支配下に収める能力はまだあった。1990年の時点でも、数十万人規模のソ連軍が東ヨーロッパに残っていた[24]


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