当初は記者の親睦的組織として始まった東京映画記者会だったが、最大時には在京の日刊紙・通信社の加盟社は17社、会員数は80人を超えるまでに成長し、規模が大きくなるにつれ、選考に対する考え方に違いが生じるようになった[1]。大衆賞が欲しい美空ひばりが事前運動をしたという噂が広まったことがキッカケに[注釈 1]、一般紙よりスポーツ新聞記者の票数が多いことに対する不満が噴出し[3]、1960年(昭和35年)3月には大手新聞6社(読売新聞・朝日新聞・毎日新聞・産経新聞・東京新聞・日本経済新聞)および共同通信社が脱退[1][11]。これによりブルーリボン賞は第11回(1960年度)からスポーツ紙を中心にした新聞社による主催となり、現在に至っている[1][注釈 2]。
1967年(昭和42年)、新聞記者が審査員を務める日本レコード大賞の「黒い霧」の噂を気にした新聞社上層部が、〔賄賂を受け取る立場になりかねない〕記者会主催の賞を辞めるように厳命し[3]、第17回(1966年度)を最後にブルーリボン賞は一時廃止される事となる[1][3]。また、分裂した7社が設立した日本映画記者会賞や、テアトロン賞(東京演劇記者会)、ホワイトブロンズ賞(地方新聞映画記者会)などの記者会賞も1966年度で一斉に廃止されている[1]。
しかし、若手記者を中心に再開を望む声があがるようになり、1973年(昭和48年)秋にブルーリボン復活準備委員会が発足され、1975年度に再スタートを果たした[1]。 毎年1月1日から12月31日までに、首都圏で封切られた全作品を対象とし、1月に選考が行われる。作品、監督、主演男女優、助演男女優、新人(監督も含み、映画デビュー2年以内が対象)、外国映画の各部門がある。年によってスタッフ賞や特別賞も選ばれる。前年末までに記者会員全員による投票で選ばれたノミネートの中から、選考会で合議ののち投票で過半数を得た作品・人に賞が贈られる。[1]選考にあたっては、演技だけでなく、映画に対する姿勢や人格も対象とする[12]。 授賞式は2月に行われ、受賞者発表時の各紙で、授賞式への読者抽選無料招待の応募要項が掲載される。なお、「映画記者の手作りの賞」を標榜することから、この選考だけでなく授賞式会場の設営、照明・音響、観客の誘導といった裏方の仕事なども全て各紙の映画記者たちが行っている[1][2]。 進行役(司会者)は、前年度に主演男優賞、主演女優賞を受賞した俳優が担当する。 新型コロナの影響で、2020年度から2022年度まで授賞式は開催されなかった。 開始当初は主催者の財政が厳しいため受賞者への賞品も特になく、賞状を青色のリボンで結んで渡したことから「ブルーリボン賞」と呼ばれるようになり、のちに正式名称になった[1]。現在も続くこの青いリボンには「青空の下で取材した記者が選考する」という意味が込められている[2][12]。この他に記者の象徴であるペンを賞品とし[12]、受賞者名入りのモンブランの万年筆1本が贈られる[1]。 この逸話が当賞が日本映画界の最高栄誉とされる根拠とされている。 新聞記者の先取り精神から、新しい才能をいち早く発掘したことが一番の特徴として挙げられる[1][3]。第2回の三國連太郎、第8回の石原裕次郎、第9回の今村昌平監督、第11回の大島渚監督らに他の映画賞に先んじて新人賞を贈り激励[1][3]。そのほか、岩下志麻、浦山桐郎、佐藤純彌、熊井啓、渡哲也、大竹しのぶ、三浦友和、原田美枝子、大林宣彦、美保純らも発掘し、彼らは日本映画の担い手として活躍している[3]。 演技賞でも、三船敏郎、佐田啓二、フランキー堺、吉永小百合、岩下志麻、夏目雅子、薬師丸ひろ子らに、どの映画賞よりも早く賞を贈った[3]。 また、〔大島渚監督などの〕ヌーヴェルヴァーグがもて囃(はや)されている中、『なつかしい風来坊』を表彰することで、注目されていなかった山田洋次監督をスポットライトの当たる場所に立たせた[3](第17回)。
選考・授賞式
由来と賞品
特徴と功績
歴代各賞(表記年は対象映画の年度であり、授賞式は翌年2月)
第1回(1950年度) - 第10回(1959年度)
第1回(1950年度)
作品賞『また逢う日まで』[4]
監督賞 今井正『また逢う日まで』[4]
主演男優賞 山村聡『宗方姉妹』ほか[4]
主演女優賞 淡島千景『てんやわんや』『奥様に御用心