ブルース・スプリングスティーン
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ブルースにとって不遇の時代に、マンフレッド・マンズ・アース・バンドが「光に目もくらみ」(1977)をカバーしてヒットさせている。

前作より3年が経った1978年に、アルバム『闇に吠える街 (Darkness on the Edge of Town)』を発表する。前作のセールスには及ばなかったものの、その後のライヴでの主要レパートリーが多く収録されたアルバムとなった。当作を引っ提げた全米ツアーを実施した。また同78年、パティ・スミスに「ビコーズ・ザ・ナイト」を提供し、同曲はヒットを記録した[6]
1980年代東ドイツ『DDRラジオ放送局』ライブにて(1988年)

1980年10月17日、5枚目のアルバム『ザ・リバー (The River)』を発表。初めてアルバム・チャート1位を獲得し、リカット・シングル「ハングリー・ハート (Hungry Heart)」も初のBillboard Hot 100のトップ10入り。その後、約1年に渡るワールド・ツアーを敢行した。またアルバム収録曲「ザ・リバー」も話題となった。1981年にはゲイリーUSボンズにヒット曲「ディス・リトル・ガール」を提供し、ボンズのカムバックに協力した。

1982年9月30日、6枚目のアルバム『ネブラスカ (Nebraska)』を発表。アコースティック・ギターとハーモニカだけで自宅にてレコーディングされた作品で、内容も含めて反響を呼んだ。

1984年4月に始めた連続コンサートは1億1700万ドル(当時のレートで約277億3000万円)の興行収入をあげたとして、かつてギネス世界記録で「最も成功したコンサート」として認定されていた[7]6月4日、7枚目のアルバム『ボーン・イン・ザ・U.S.A. (Born in the U.S.A.)』を発表。アルバム・チャート(ビルボード)1984年6月23日付初登場9位、その後、1984年7月3日から4週連続で1位となり、間をあけて1985年1月19日に再度1位に返り咲くという大ヒット作となる。また、UKアルバム・チャートでも1984年6月16日付で初登場2位、1984年12月22日付では79位にまでダウンしたが、翌12月29日付以降再び順位を上げ、チャートイン36週目の1985年2月16日付で初の1位を記録。さらに6月1日付では14位までダウンするものの、7月6日付で再度1位に返り咲くという記録を達成している。アルバム中の1曲「ダンシン・イン・ザ・ダーク (Dancing In The Dark)」は、全米シングル・チャート(ビルボード)で4週連続第2位を記録した(1984年6月30日?7月21日)。また、この曲のミュージック・ビデオでは、有名な映画監督のブライアン・デ・パルマが、まだ女優としては無名だったコートニー・コックスをファン役に起用。彼女がライブの途中でスプリングスティーンにステージに呼び寄せられ、一緒にダンスを踊るという内容である。だが、「ボーン・イン・ザUSA」の曲は誤解され、保守派のジョージ・ウィルがブルースのコンサートに出かけ、彼の労働倫理を賞賛する文章を書いた。共和党の右派政治家ロナルド・レーガンも演説でブルースを賞賛した[8]。曲はレーガンの大統領選挙のキャンペーンに使用され、ブルースは激怒した。また同曲は民主党のウォルター・モンデール候補にも使用された。

アルバムは、全米で1200万枚、全世界で2000万枚の売上を記録し、発表と同時に行われたワールド・ツアーも大成功を収めた。USAフォー・アフリカにてウィ・アー・ザ・ワールドを歌う

1985年4月、初来日公演を行った。同年5月、モデルのジュリアン・フィリップス(英語版)と結婚した(1988年に離婚)。同年、USA for AFRICAの「ウィ・アー・ザ・ワールド」に参加した。ソロパートを2度も担当している。メイキング映像によると、「飢えている人たちのために一晩くれと言われたら、断るわけにはいかない」と語っている。また、当時Eストリート・バンドを離れていたスティーヴ・ヴァン・ザント(後に復帰)を中心とした「アパルトヘイトに反対するアーティストたち」の楽曲「サン・シティ」にも参加した。

1986年には、1975年から1985年までのライヴ録音からベストテイクを集めたライヴ・アルバム『THE LIVE (Live/1975-85)』を発表する。LP5枚組、またはCD3枚組というボリュームにもかかわらず、アルバム・チャート初登場1位という、前代未聞の記録を残した。

1987年10月9日、8枚目のスタジオ・アルバム『トンネル・オブ・ラヴ (Tunnel Of Love)』を発表。アルバム発表後ワールド・ツアーを行うが、ツアー終了後の1988年、デビュー以来バックを勤めてきたEストリート・バンドは解散した。
1990年代妻パティ・スキャルファ(2008年)

1991年、同郷でバンド仲間であるシンガーソングライター、パティ・スキャルファと再婚。後には3人の子供を儲ける[9]

1992年、長い沈黙を破り、『ヒューマン・タッチ (Human Touch)』と『ラッキー・タウン (Lucky Town)』という2枚のアルバムを同時発表した。2枚組にしなかった理由は、『ヒューマン・タッチ』完成直前に新たなコンセプトが浮かびアルバム1枚分の曲を録音したが、同じアルバムに収録するには無理があると判断したためである。

1993年には、ジョナサン・デミ監督の映画『フィラデルフィア (Philadelphia)』の主題歌として「ストリーツ・オブ・フィラデルフィア (Streets Of Philadelphia)」を書き下ろしで提供。同曲で1994年アカデミー歌曲賞を受賞している。日本で深夜に放送されていた音楽番組『BEAT UK』(フジテレビ)では、UKシングル・チャートNo.1を獲得した。

1995年に、初のベスト・アルバム『グレイテスト・ヒッツ (Greatest Hits)』を発表。再結集したEストリート・バンドと録音した3曲を含む新曲4曲も収録された。同年には、ジョン・スタインベックの小説『怒りの葡萄』にヒントを得たアルバム『ザ・ゴースト・オブ・トム・ジョード(英語版) (The Ghost of Tom Joad)』を発表。1997年まで、アコースティック・ソロでワールド・ツアーを行った。

1998年には、デビュー以来の未発表曲や既発曲の別テイクを集大成したCD4枚組ボックス・セット『トラックス(Tracks)』を発表。直後にEストリート・バンドの再結成ツアーを行い、全米とヨーロッパの各地で歓迎された。

1999年、『ロックの殿堂』入りを果たす[10]
2000年代地元ニュージャージー州にて(2005年4月)

2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件は、スプリングスティーンの活動にも大きな影響を及ぼした。事件直後は、いくつかの追悼イベントに参加。翌2002年7月には新作アルバム『ザ・ライジング (The Rising)』を発表。テロの犠牲者や遺族、自爆テロリストにまで題材をとり、事件の傷跡を癒そうとする内容の作品であった。同時に全国、ヨーロッパを巡るツアーを開始。

当初、アメリカのアフガニスタン侵攻については賛同していたものの、イラク戦争については反対を表明した[11]

2004年アメリカ合衆国大統領選挙に際しては、反ブッシュ的立場を鮮明にした。『Vote For Change』と銘打って、R.E.M.パール・ジャムジャクソン・ブラウンジョン・フォガティ(元クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル)ら多数のアーティストとツアーを行い、共和党支持の強い地域で民主党支持を訴えた。選挙直前の2004年10月28日には、オハイオ州ジョン・ケリー上院議員の応援演説も行った。結果的にブッシュは再選されたが、それについてのスプリングスティーンのコメントは発表されず、彼自身のアコースティック・ギター弾き語りによるアメリカ国歌がオフィシャルサイトにアップロードされた。

2005年4月に、通算20作目となるアルバム『デビルズ・アンド・ダスト (Devils & Dust)』が発表された。


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