ブルンジ
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

^ 2019年2月公布の法案による。ギテガへの遷都は2021年までを予定。

ブルンジ共和国(ブルンジきょうわこく)、通称ブルンジは、東アフリカの内陸部にある国家ルワンダコンゴ民主共和国タンザニアと国境を接する。一方で多数派のフツと少数派のツチの間で対立があり、1962年の独立以降はたびたび衝突し1993年には内戦にまで発展している。政治面の首都はギテガ、経済面の首都はブジュンブラである。
国名

正式名称はルンディ語でIrepuburika y'Uburundi、Republika y'Uburundi。フランス語でRepublique du Burundi [bu?undi] 。英語でRepublic of Burundi [b??ru?ndi, b?'r?ndi] 。日本語の表記はブルンジ共和国。通称、ブルンジ。

「ブルンジ」の「ブ」はルンディ語で「国」を意味し「ルンジ」はこの国の民族のルンディ族を意味する[4]。故に、ルンディ語で「ルンディ族の国」という意味となる[5]
歴史詳細は「ブルンジの歴史」を参照
独立前

16世紀ごろに、中央部の高原にブルンジ王国が成立した[6]。18世紀には、干ばつや疫病、奴隷商人の襲撃などを免れたため周辺諸国に対し相対的に強力となり、この繁栄は19世紀まで続いた[7]

1884年にはドイツの勢力圏に入り、のちにドイツ領東アフリカの一部となったが、ドイツはブルンジ王国の統治構造に全く手をつけず、間接統治を行った[8]。1914年に第一次世界大戦が勃発するとブルンジはアフリカ戦線の一部として戦闘が始まり、1916年にはベルギー領コンゴからの軍によって制圧された[8]

第一次世界大戦が終結すると、1923年には隣国ルワンダとともに国際連盟委任統治領ルアンダ=ウルンディとしてベルギーの統治下に入った。ベルギー政府もドイツの方針を受け継ぎ、ブルンジ王国を存続させて間接統治を継続した。1946年には国際連合の成立により、その信託統治領に改組された。1950年代後半に入ると徐々に政治参加の拡大を求める動きが見られるようになり、1961年年9月8日の植民地議会選挙において、王太子のルイ・ルワガソレ(英語版)(ムワンブツァ4世の第1王子)率いる国民進歩統一党 (UPRONA) が勝利した。ルイ・ルワガソレは首相に就任したものの、独立を目前にした1961年10月13日、暗殺された[8]
独立後

1962年、ブルンジ王国はムワミ(国王)ムワンブツァ4世を元首としてベルギーから独立した。しかしフツ・ツチ両民族の対立による政局の混乱が続き、1966年7月には反乱によってムワンブツァ4世が追放されてその第2王子であるンタレ5世が即位したものの、彼も同年11月にミシェル・ミコンベロ首相によって追放され、ミコンベロは王政の廃止と共和制の樹立を宣言してブルンジ共和国を成立させ、自らは大統領に就任して[8]、国民進歩統一党の後身である民族進歩連合 (略称は同じくUPRONA)の一党制国家を樹立した[9]

共和制樹立後も、政治の混乱はおさまらなかった。1972年には少数民族のツチ族による支配に不満を持つフツ族の反乱で1万人のツチ族が殺害されると、その報復として同年4月から10月にかけてツチ族系の軍隊がフツ族10万人を殺害するという事件につながった[8]。このとき、帰国してギテガの自宅に軟禁されていた前国王ンタレ5世も殺害された[10]。1976年にはジャン=バティスト・バガザ中佐がクーデターを起こしてミコンベロを追放し、1979年には形式的な民政移管を行った[8]

1987年9月、国軍による無血クーデターでバガザ政権が倒れ、ツチのピエール・ブヨヤ政権が誕生した。ブヨヤ政権は民族融和を推進するが、民族間の抗争を止めることはできず、1988年には再びフツの暴動によってツチの虐殺が起こり、これを鎮圧する軍によってフツも虐殺された[11]。ブヨヤ政権は事態を収めるため、フツから首相を指名する他、複数政党制を導入し1993年6月には複数政党制で大統領選挙を行った[8]
ブルンジ内戦

選挙の結果、フツ主体の野党であったブルンジ民主戦線(FRODEBU)のメルシオル・ンダダイエが勝利をおさめ、フツとして初の大統領に就任し、続く議会選挙でも勝利した[12]。しかし10月にはクーデター未遂事件がおこり、ンダダイエ大統領がツチ族強硬派に暗殺された。これによりブルンジ内戦(英語版)が勃発し、多くの死傷者と難民が発生した(en:Burundian Genocide#1990?1994)。翌1994年2月にはブルンジ民主戦線からシプリアン・ンタリャミラが大統領に選出されたものの、わずか2ヶ月後の1994年4月に、ンタリャミラとルワンダ大統領ハビャリマナが搭乗したルワンダ大統領機がキガリ国際空港上空で撃墜され、ンタリャミラも死亡した。ハビャリマナとンタリャミラ両大統領暗殺事件である。これによって再び暴動が勃発した[9]ものの、シルヴェストル・ンティバントゥンガニャが後任の大統領に選出されていったんは収束した。しかし、ルワンダ内戦によって多数のフツ難民が流入したこともあって再び混乱が始まり、政府はこれを収拾することができなかった[13]

この事態の打開を目指して1996年7月にツチ主体の軍部がクーデターを起こし、ブヨヤ元大統領が再び大統領に就任して暫定政権を作った[14]ものの、国際連合アフリカ統一機構もこれを承認しなかった。ブルンジに対して経済制裁が行われたが1997年には緩和され、1998年から和平交渉が始まり、2000年に近隣諸国の仲介で和平協定が成立した。2001年には暫定政府が成立し、2003年にはブヨヤがフツのドミシアン・ンダイゼイエへと政権を委譲した。その後、総選挙を経て2005年8月に民主防衛国民会議・民主防衛勢力 (CNDD-FDD) 党首でフツ系のピエール・ンクルンジザが大統領に就任した。しかし、同じフツ系の旧反政府組織の民族解放軍(英語版) (FNL) はその過程を拒否し、武装活動を続けたものの、2006年9月にブルンジ政府とFNLとの間に正式な和平と権力分担が合意され、ンクルンジザ大統領とアガトン・ルワサ(英語版)FNL議長が和平合意に調印し、2009年には和平プロセスが完了した[15]
ンクルンジザ政権

内戦を終息させたンクルンジザ政権は強権化していき、2015年4月には憲法で禁じられている3選への出馬を巡ってデモなどの抗議活動が激化し始めた[16]。そして5月13日にはゴドフロア・ニヨンバレ少将がクーデターを起こして大統領の追放を宣言したものの[17]、プライム・ニヨンガボ軍参謀長ら大統領支持派はこれを否定して直ちに反撃に移り[18]、14日には首都ブジュンブラで市街戦が勃発した[19]。同日、外遊中だったンクルンジザ大統領が帰国し[20]、15日には幹部や部隊が投降してクーデターは鎮圧された[21]

ただしこの混乱で10万人以上が国外に脱出した上[22]、クーデター鎮圧後も激しい抗議デモが続いたものの[23]、6月29日には議会選挙が[24]、7月21日には大統領選挙が予定通り実施され[25]、ンクルンジザ大統領は3選された[26]

しかしその後も、8月2日に大統領の腹心が暗殺されたり[26]、12月には首都の軍事施設が武装集団に襲撃されるなどの混乱が続いた[27]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:105 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef