ブルボン家
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ルイはさらに、エドワード4世との間で1475年にピキニー条約(英語版)を取りまとめてアングロ=ブルギニョン同盟を崩壊させた[3]

1488年に死去したジャン2世には庶子しかいなかったため、聖職にあった三弟シャルル2世が公位を継いだ。ジャン2世の庶子の家系はラヴェンダン子爵、バシアン男爵、マローズ公爵となった。しかしシャルル2世は兄の死から5ヶ月余り後に死去した。四弟のリエージュ司教ルイ (en) には男子がいたものの庶子扱いされ(この家系はブルボン=ビュッセ家 (en) と呼ばれ、現在まで続いている)、末弟ピエール2世が公位を継いだ。ピエール2世はシャルル8世王の姉アンヌ・ド・ボージューの夫であり、妻と共に義弟の摂政を務めていた。
ブルボン=モンパンシエ家ブルボン公シャルル3世

唯一の男子に先立たれていたピエール2世が1503年に死去すると、ブルボン家嫡流(第一ブルボン家)の男子は絶えた。そのため、ピエール2世の娘シュザンヌと、その又従兄に当たる傍系ブルボン=モンパンシエ家のモンパンシエ伯シャルル(シャルル3世)が結婚して、共同で公位を継承した。ヴァロワ家でもシャルル8世の死で嫡流が絶え、オルレアン公シャルルの息子ルイ12世が王位を継承し、続いて従甥で娘婿であるフランソワ1世1515年に王位に就く。

シャルルはモンパンシエ伯ルイ1世の孫で、その息子ジルベールマントヴァ侯フェデリーコ1世の娘クララの息子であった。伯位は父からシャルルの兄ルイ2世に継承されていたが、ルイ2世が未婚のまま早世したためシャルルが継承者となった。

シャルル3世はマリニャーノの戦い(英語版)で功を立てて元帥に任じられ、さらにはミラノ総督に任じられたが、有能さ故に恐れられたのか、間もなく更迭されて帰国を命じられた。1521年に妻シュザンヌが没すると、フランソワ1世の母でブルボン公シャルル1世の娘マルグリットを母とするルイーズ・ド・サヴォワがブルボン家の相続権を主張し、シュザンヌの領地はフランソワ1世に没収された。これに憤激したシャルル3世は1523年、フランソワ1世の宿敵である神聖ローマ皇帝カール5世と密約を交わし、イングランド王ヘンリー8世も巻き込んだ陰謀を企てた。しかし、この陰謀はフランソワ1世に露見し、シャルル3世はカール5世の許へ逃亡した。

カール5世の下で軍の指揮を委ねられたシャルル3世は、1525年パヴィアの戦いでフランソワ1世を捕虜とする活躍を見せた。フランソワ1世は翌1526年にマドリード条約を締結して釈放されるが、すぐに破棄して1527年に戦争を再開する。カール5世は、フランソワ1世に与した教皇クレメンス7世への懲罰として、シャルル3世を指揮官とする軍勢をローマへ差し向けた。シャルル3世率いる皇帝軍は教皇軍を敗走させたが、ローマを包囲中にシャルル3世は戦死した。指揮官の死によって皇帝軍は統制を失い、ローマ略奪が起こった。
ブルボン=ヴァンドーム家

シャルル3世の死をもってブルボン家の本流は絶えた。代わって、ブルボン公ルイ1世の四男ラ・マルシュ伯ジャック1世 (en) から5代目の末裔であるヴァンドーム公シャルルがブルボン家の家長となったが、ブルボン公の称号と所領はルイーズ・ド・サヴォワを経てヴァロワ=アングレーム王家のものとなった。ラ・マルシュ伯の家系をブルボン=ラ・マルシュ家と呼ぶが、ジャック1世の子ジャン1世 (en) は婚姻によりヴァンドーム伯位を獲得し、次男ルイ (en) がこれを継承した。ラ・マルシュ伯はルイの兄ジャック2世 (en) が継承したが、男子がなく断絶した。ラ・マルシュ伯はルイから3代にわたって継承されたが、シャルルの代に至ってヴァンドーム公に昇叙されていた。この家系を特にブルボン=ヴァンドーム家と呼ぶ。一方、シャルルの叔父ルイ (en) はシャルル3世の姉ルイーズ (en) と結婚しており、ブルボン朝初期まで続く第二ブルボン=モンパンシエ家を興している。

ヴァンドーム公シャルルの伯母ジャンヌは、初め宗家のブルボン公ジャン2世の3人目の妻となり、死別後の再婚でカトリーヌ・ド・メディシスの母マドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュをもうけている。また、シャルルの妹アントワネットギーズ公クロードに嫁いでおり、フランソワ2世の王妃でもあったスコットランド女王メアリー・ステュアートやアンリ4世と敵対するギーズ公アンリ1世はその孫であった。

シャルルの息子アントワーヌは、ナバラ女王ジャンヌ・ダルブレと結婚してナバラ王位を獲得した。ジャンヌの家系アルブレ家はナバラ王家としてピレネー山脈以北のバス=ナヴァール(低ナバラ、現在のフランス領バスク)を治めた他、フォワベアルンなどフランス南部に所領を持つ大貴族であり、ジャンヌはその最後の当主であった。また、ジャンヌの母マルグリットはフランソワ1世の姉であり、さらに最初の夫アランソン公シャルル4世がアントワーヌの母方の伯父であるという縁もあった。ジャンヌは熱心なユグノーであり、カルヴァン派を国教として領内のカトリック教徒を弾圧した。1553年にジャンヌが夫アントワーヌとの間に儲けたのが、のちのフランス王アンリ4世である。

アントワーヌの弟のうち、ブルボン枢機卿およびルーアン大司教シャルルは国王アンリ3世の死後にアンリ4世の対立王「シャルル10世」として擁立されたが、間もなく死去した(1589年 - 1590年)。末弟のコンデ公ルイ1世ブルボン=コンデ家の祖である。この家系からはさらにブルボン=コンティ家が分かれている。

アンリ4世の即位後、ヴァンドーム公位は庶子セザールに授けられ、第2のブルボン=ヴァンドーム家を興したが、孫のフィリップの代で断絶した。
歴代当主
第一ブルボン家


ブルボン公ルイ1世1327年 - 1342年

ブルボン公ピエール1世1342年 - 1356年

ブルボン公ルイ2世1356年 - 1410年

ブルボン公ジャン1世1410年 - 1434年


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