ブルボン家
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ジャンヌは1373年に突如発狂したが、精神障害はブルボン家の近親者に多かれ少なかれ見られ、遺伝性疾患であったと考えられている。これはヴァロワ家、後にランカスター家にも遺伝し、フランスとイングランドの歴史を大きく左右することになる。

1380年にシャルル5世とジャンヌの息子シャルル6世が王位に即き、新王の伯父ブルボン公ルイ2世は先王の弟たちとともにその後見人となった。シャルル6世が1392年に発狂して以後、王弟オルレアン公ルイの一派(オルレアン派)と叔父フィリップ豪胆公(後に息子ジャン無怖公)の一派(ブルゴーニュ派)の間で権力抗争が繰り広げられたが、ルイ2世はこの争いには加担しなかったらしい。1410年にルイ2世が73歳で没すると、ブルボン公位を継いだ息子ジャン1世は、暗殺されたオルレアン公ルイの遺児シャルルを首領として同年に結集したアルマニャック派に加わった。

1415年のアジャンクールの戦いで、フランス軍はヘンリー5世率いるイングランド軍に大敗し、オルレアン公シャルルを始めとする多くの貴族が捕虜となった。ブルボン公ジャン1世も捕虜となってロンドンへ送られ、ジャン1世の息子シャルル1世が不在の父に代わって実質的な家長となったが、若年のため母マリーが後見した。翌1416年には、マリーの父でヴァロワ家の長老であったベリー公ジャンが没するが、ベリー公には男子の後継者がなく、マリーが所領の一部であるオーヴェルニュ公領およびモンパンシエ伯領を相続した。のち、マリーの長男であるシャルル1世は前者を譲られ、三男ルイは後者を譲られてブルボン=モンパンシエ家を興す。

1419年、無怖公はアルマニャック派によって暗殺され、息子フィリップ善良公は報復としてイングランドと同盟する(アングロ=ブルギニョン同盟)。1422年にヘンリー5世とシャルル6世が相次いで没するが、ブルボン公シャルル1世はシャルル6世の息子シャルル7世に忠実に仕え、シャルル7世も自分とほぼ同年齢で有力な一族であるシャルル1世を信頼し重用するようになった。イングランドとブルゴーニュがネーデルラントを巡って仲違いを始めると、シャルル7世はすかさず善良公と1424年にシャンベリーの協定を結んで相互不可侵を獲得する。さらにシャルル7世は善良公を自分の陣営に引き込むため、翌1425年にシャルル1世及び懐刀でもあるフランス元帥アルテュール・ド・リッシュモンを善良公の姉妹であるアニェスマルグリットとそれぞれ結婚させた。

1434年にジャン1世がロンドンで虜囚のまま没したことにより、シャルル1世は名実ともにブルボン公となった。同年末のヌヴェールでの協議において、リッシュモン元帥の調停によりシャルル1世と善良公は和解する。翌1435年のアラス会議には、フランス側の代表としてシャルル1世とリッシュモンが派遣された。会議は成功しアラスの和約が結ばれ、シャルル1世とリッシュモンは善良公の前で十字架に手を差し伸べ、無怖公への哀悼を示した。その後、シャルル1世は善良公と手を組んで街中を行進することで和解をアピールした[2]

しかしその頃から、リッシュモンによる常備軍としての国王軍創設の改革を原因として、ブルボン公シャルル1世とシャルル7世の関係は微妙なものとなる。1440年に発覚したプラグリーの乱は、シャルル1世がアランソン公ジャン2世ジャン・ド・デュノワら他の王族と謀り、シャルル7世を廃位して王太子ルイを王位に就けようと企てた事件であった。陰謀はリッシュモンに露見して失敗に終わり、シャルル1世は逃亡したが、後に自らシャルル7世の許に出頭して謝罪した。シャルル1世は罪を許されたものの、領地の一部を没収された。
百年戦争終結後

シャルル1世は百年戦争終結から3年後の1456年に没し、息子ジャン2世が公位を継ぐ。1461年にはシャルル7世が死去し、ブルゴーニュ公国に亡命していた王太子ルイがルイ11世として王位に就く。ルイ11世は父王の中央集権化政策をさらに推し進め、ジャン2世を始めとする多くの諸侯の反発を招いた。ジャン2世は、自らの従弟で妹婿でもある善良公の嫡男シャルル(のちの突進公)らを始めとする諸侯を糾合して公的同盟 (en) を結成する。

1467年にブルゴーニュ公位を継いだシャルル突進公は、ヨーク家のイングランド王エドワード4世と同盟し、共同でフランスに攻め寄せた。この戦いに際して、ジャン2世の庶弟ルイはフランス海軍元帥に任じられ、艦隊を率いてアラス一帯でゲリラ活動を行い、アングロ=ブルギニョン連合軍を撹乱した。ルイはさらに、エドワード4世との間で1475年にピキニー条約(英語版)を取りまとめてアングロ=ブルギニョン同盟を崩壊させた[3]

1488年に死去したジャン2世には庶子しかいなかったため、聖職にあった三弟シャルル2世が公位を継いだ。ジャン2世の庶子の家系はラヴェンダン子爵、バシアン男爵、マローズ公爵となった。しかしシャルル2世は兄の死から5ヶ月余り後に死去した。四弟のリエージュ司教ルイ (en) には男子がいたものの庶子扱いされ(この家系はブルボン=ビュッセ家 (en) と呼ばれ、現在まで続いている)、末弟ピエール2世が公位を継いだ。ピエール2世はシャルル8世王の姉アンヌ・ド・ボージューの夫であり、妻と共に義弟の摂政を務めていた。
ブルボン=モンパンシエ家ブルボン公シャルル3世

唯一の男子に先立たれていたピエール2世が1503年に死去すると、ブルボン家嫡流(第一ブルボン家)の男子は絶えた。そのため、ピエール2世の娘シュザンヌと、その又従兄に当たる傍系ブルボン=モンパンシエ家のモンパンシエ伯シャルル(シャルル3世)が結婚して、共同で公位を継承した。ヴァロワ家でもシャルル8世の死で嫡流が絶え、オルレアン公シャルルの息子ルイ12世が王位を継承し、続いて従甥で娘婿であるフランソワ1世1515年に王位に就く。

シャルルはモンパンシエ伯ルイ1世の孫で、その息子ジルベールマントヴァ侯フェデリーコ1世の娘クララの息子であった。伯位は父からシャルルの兄ルイ2世に継承されていたが、ルイ2世が未婚のまま早世したためシャルルが継承者となった。

シャルル3世はマリニャーノの戦い(英語版)で功を立てて元帥に任じられ、さらにはミラノ総督に任じられたが、有能さ故に恐れられたのか、間もなく更迭されて帰国を命じられた。1521年に妻シュザンヌが没すると、フランソワ1世の母でブルボン公シャルル1世の娘マルグリットを母とするルイーズ・ド・サヴォワがブルボン家の相続権を主張し、シュザンヌの領地はフランソワ1世に没収された。これに憤激したシャルル3世は1523年、フランソワ1世の宿敵である神聖ローマ皇帝カール5世と密約を交わし、イングランド王ヘンリー8世も巻き込んだ陰謀を企てた。しかし、この陰謀はフランソワ1世に露見し、シャルル3世はカール5世の許へ逃亡した。

カール5世の下で軍の指揮を委ねられたシャルル3世は、1525年パヴィアの戦いでフランソワ1世を捕虜とする活躍を見せた。フランソワ1世は翌1526年にマドリード条約を締結して釈放されるが、すぐに破棄して1527年に戦争を再開する。


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