オランダはロングアイランドの最西端に入植した最初のヨーロッパ人であり、それまではインディアンのレナペ族が同地に居住していた。オランダの地名ブルーケレン(Breuckelen)より名づけられた"ブルーケレン入植"はニューネーデルラントの一部を成していた。オランダ西インド会社を中心に同地に6つの街を築いた。
グレーヴセンド
1664年、第二次英蘭戦争によりニューネーデルラントがイングランドによって征服されるとロングアイランド西部はイングランドの支配下に置かれた。同戦争で活躍した海軍の指揮官を務めたヨーク公(後のジェームズ2世)を称えニューネーデルラントはニューヨークと名を変え、現在のブルックリンを含むロングアイランドはニューヨーク植民地の管轄化に置かれた。
1683年11月1日、イングランドはロングアイランド最西部の南端に置かれた上記の6つの街をキングス郡として統一した。この頃のニューヨーク植民地は12の郡を内包しておりキングスはその一つとなった。これが現在のブルックリン地域初めての地方行政の誕生であり、後の同地区の行政的アイデンティティも形成することとなった。
ペトルーンと呼ばれる領主的権限を持つ大地主や小作農民が同地にはいなかったことから13植民地の中でも同地区の奴隷の使用は盛んであった。 1776年8月27日、ロングアイランドの戦い(別名ブルックリンの戦い)が行われる。この戦いは植民地側が独立を宣言した後に行われた最初の戦闘であり、またこの独立戦争最大規模の戦闘になった。イギリス軍はジョージ・ワシントン率いる大陸軍を現在のグリーンウッド墓地、プロスペクト・パーク
アメリカ独立戦争
この戦いで惨敗を喫してしまったワシントンは指揮官としての資質を問われることもあったが、僅か一日で全兵士をイーストリバーを越えて撤退させたことは多くの歴史家によって高く評価されている。
ブルックリンを含むロングアイランドはほぼ全てがイギリスの指揮下に置かれ、現在のニューヨーク市地域は瞬く間にイギリスの北米指揮の本拠地となった。イギリスとのビジネス関係からキングスにはイギリス支持派のロイヤリストがおり、彼らは大陸軍と共に撤退や避難はしなかったためイギリスは彼らのサポートも受けることが出来た。しかしワシントン率いるアメリカ独立戦争の情報戦略が功を奏し、徐々にロイヤリスト達は植民地側へと付くようになっていった。
イギリスはウォーラバウト港に囚人船を持ち込み、ここに収容され死んでいったアメリカ人パトリオットの人数は独立戦争の戦闘で死んだ数よりも多い。
1783年、パリ条約が結ばれ植民地はアメリカ合衆国としてイギリスより完全独立。同年11月25日はイギリス軍がニューヨークより撤退した日で、Evacuation Day(撤退の日)と呼ばれ現在でも式典などが催される記念日となっている。 19世紀初頭になると都市の拡大と共にマンハッタンに次ぎキングス郡の都市化が顕著となった。
19世紀初頭の都市化