原史時代のブルターニュには5つのケルト部族がいた:[14]
クリオソリタエ族(en:Curiosolitae) - 現在のコルスール周辺に定住。彼らの領土はコート=ダルモール県、イル=エ=ヴィレーヌ県、モルビアン県
ナムネテス族(en:Namnetes) - ロワール川の北、現在のロワール=アトランティック県に定住していた。彼らの名がナントの語源となっている。ロワール川の南岸は同盟部族のアムビラトレス族が占領していた[15]。アムビラトレス族の領土と存在は不明なままである[14]。
オシスミイ族(en:Osismii) - ブルターニュ西部に定住。彼らの領土は現在のフィニステール県や、コート=ダルモール県とモルビアン県の西端を含んでいた。
レドネス族(en:Redones) - イル=エ=ヴィレーヌ県の東部に定住していた。レンヌの語源となっている。
ウェネティ族(Veneti) - 現在のモルビアン県に定住。ヴァンヌの語源となっている。古典学者ストラボンが混同していたにもかかわらず、ウェネティ族はアドリア海沿岸にいたウェネティ族(en、現在のヴェネト州に居住していた印欧語族)とは関係がない。
これらのケルト部族は島嶼ケルト人たちとスズ貿易で強い経済関係で結ばれていた。いくつかの部族は、ガイウス・ユリウス・カエサルによれば、クリオソリタエ、レドネス、カレテス、オシスミイ、レモウィセス、ウネリそしてアムビバリイ部族を集めたアルモリカの連合に属していた[16]。
ローマ支配コルスールのマルス神殿
紀元前51年、ブルターニュは古代ローマの一部となった。紀元前13年にはローマ属州ガリア・ルグドゥネンシスに含まれた。ガリアの町や村はローマの基準に従い再度開発され、いくつかの都市がつくられた。これらの都市は、Condate(レンヌ)、Vorgium(カレ)、Dariotirum(ヴァンヌ)そしてCondevincum(ナント)である。Fanum Martis(コルスール)とともに、これら都市は地元キウィタスの主要都市であった。都市は格子状のグリッド・プラン(en)や、ローマのフォルム(en)をすべて備え、時には神殿やバジリカ、公衆浴場(テルマエ)、または水道橋を備えていた。ローマ人はこの地方へ通じる3本の主要道も建設した。しかし、ローマ支配下のブルターニュ人口の大半は農村にあった。自由農民は小さな小屋に暮らしていたのに対し、地主や雇い人たちはヴィッラ・ルスティカに住んでいた。ガリアの神々が信仰され続け、しばしばローマの神々と同化された。ローマの神々を表す像がブルターニュでわずかに見つかっており、ローマ支配下のガリアの部族たちはローマの信仰にケルトの要素を組み合わせていたことがわかる[17]。
3世紀、一帯を数度にわたってフランク族、アラマンニ族そして海賊が襲撃した。同じ頃、地元経済が崩壊し、多くの農場が放棄された。侵略に直面して、多くの町や都市が、ナント、レンヌ、ヴァンヌのように要塞化された[17]。 5世紀の終わり、ローマ化したブリトン人たちがアルモリカに移住を始めた。移住の背景についての歴史は不明であるが、中世のブルトン人とウェールズ人の源は、コナン・メリアドック
ブリトン人移住
中世ブルターニュ初代王ノミノエ。1922年にブルターニュ愛国者が創作したエングレーヴィング
中世初頭、ブルターニュは3つの王国に分かれていた。ドムノネ王国、コルヌアイユ王国、そしてブロエレック王国である。これら王国は9世紀の間に統一国家となった[20][21]。ブルターニュ統合を指揮したのは、845年から851年まで王であったノミノエで、ブルトン人よりPater Patriae(国父)とみなされている。彼の息子エリスポエは新たなブルターニュ王国の独立を確立し、ジュングランの戦いでシャルル大胆王を退けた。867年の別の戦いでもブルトン人が勝利し、王国は国土が最大に達した。王国はノルマンディーの一部、メーヌ、アンジューそしてチャンネル諸島を受け取っていた。
10世紀初頭、ブルターニュはヴァイキングの激しい攻撃を受けていた。王国は東側領土のノルマンディーやアンジューを失い、909年にはナント伯領がアンジュー伯フルク1世に与えられた。しかしナントは914年にヴァイキングが占領した。937年にアラン2世がナントを解放した。アラン2世は完全にヴァイキングをブルターニュから追い出し、強力なブルトン人国家を再建した。彼はフランス王ルイ4世に臣従の誓いを表し、こうしてブルターニュは王国ではなく公国となった。