ブルグント王国(ブルグントおうこく)は、ローヌ川流域を領土として存在した王国。現在のフランス、スイスにまたがっており、ブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地域圏、オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏、及びスイスのフランス語圏とおおよそ一致する。9世紀末からは プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュールも領域に含んだ。 「ブルグント」はフランス語では「ブルゴーニュ」であり、ブルグント王国が滅亡した後も、ブルグント王国があった地はブルゴーニュと呼ばれ続けた。ブルゴーニュ公やブルゴーニュ伯、ポルトガル王国のボルゴーニャ朝やカスティーリャ王国のボルゴーニャ朝はブルグント王国とは別のものであるが、地名としてのブルゴーニュに由来している。 411年、ブルグント族の王グンダハールはローマ帝国のガリアに侵入した。ブルグント族は西ローマ皇帝ホノリウスに休戦協定の一部としてローヌ川流域の土地を与えられ、フォエデラティ(foederati、ローマ帝国の同盟者)の地位を得た。しかしブルグント王国はフォエデラティであるにも構わず、ローマ帝国領のガリア・ベルギカ北部地域を襲撃した。反撃を受けたブルグント王国はローマ帝国の将軍アエティウス(Aetius)が呼び入れたフン族の傭兵によって437年に一旦滅ぼされた。443年、ブルグント族は西ローマ皇帝により再びフォエデラティの地位を与えられた。451年、ブルグント族はカタラウヌムの戦い(別名:タルーニャ平原の戦い)でローマ帝国と共にフン族と闘った。また西ローマ皇帝グリケリウスを擁立するなどしてローマ帝国の政治に介入した。ローマ帝国との繋がりを深めていったブルグント王国であったが五世紀末に西ローマ皇帝位は廃絶した。ガリア北部に残っていたローマ帝国領ソワソン管区も486年にはメロヴィング朝フランク王国に滅ぼされ、534年にブルグント王国もまた北から攻めてきたフランク王国によって滅ぼされた。 ブルグント王国の滅亡後、ブルグントはブルグンディア分王国としてフランク王テウデベルト1世、キルデベルト1世、クロタール1世に分割された。558年、ブルグンディアを含む全フランクをクロタール1世が統一した。クロタール1世の死後にフランク王国は再び分裂し、次男のグントラムがブルグンディア王となった。グントラムには継嗣がいなかったため、甥でありアウストラシア(現在のベルギーからドイツ中部にかけての地域)の王でもあるキルデベルト2世を後継者とした。キルデベルト2世の母であるブルンヒルドの摂政下でキルデベルト2世、テウデリク2世、シギベルト2世の3代にわたってブルグンディアとアウストラシアは共に相続された。しかし613年にブルンヒルドとシギベルト2世はネウストリア王クロタール2世の攻撃を受けて殺された。これによってブルグンディアを含む全フランクはクロタール2世によって再統一された。以後、ブルグンディア分王国はネウストリア分王国(フランス北部)と共にフランク王の嫡流に継承された。ブルグンディア分王国とネウストリア分王国が合併することは無く、別々の行政区分とされた。 751年、ピピン3世がカロリング朝を開いた。768年にピピンが死去すると、フランクの相続法に従い王国は二人の息子に分割された。
名称
歴史
ブルグント王国詳細は「ブルグント族#ブルグント族の王国」を参照
ブルグンディア分王国