ブルグント王国
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^ 表記は神聖ローマ帝国がフランス王国にブルグントを割譲した年。ブルグント族のブルグント王国滅亡は534年879年にキスユラ・ブルグント王国成立、912年にユーラ・ブルグント王国成立。ユーラ・ブルグント王は933年にキスユラ・ブルグント王国を併合し単にブルグント王国、アルル王国と呼ばれる国となる。1032年にはブルグント王家が断絶し、神聖ローマ帝国に組み込まれる。
ブルグント族が443年にサヴォイに定住した後の、ブルグント族の"第一の王国"アルル王国を通称とするブルグント"第二の王国"(緑色)。12?13世紀。"第三のブルグント王国"とも呼ばれるブルゴーニュ公国。1465年?1477年。

ブルグント王国(ブルグントおうこく)は、ローヌ川流域を領土として存在した王国。現在のフランススイスにまたがっており、ブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地域圏オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏、及びスイスのフランス語圏とおおよそ一致する。9世紀末からは プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュールも領域に含んだ。
名称

「ブルグント」はフランス語では「ブルゴーニュ」であり、ブルグント王国が滅亡した後も、ブルグント王国があった地はブルゴーニュと呼ばれ続けた。ブルゴーニュ公ブルゴーニュ伯ポルトガル王国ボルゴーニャ朝カスティーリャ王国ボルゴーニャ朝はブルグント王国とは別のものであるが、地名としてのブルゴーニュに由来している。
歴史
ブルグント王国詳細は「ブルグント族#ブルグント族の王国」を参照

411年、ブルグント族の王グンダハールはローマ帝国のガリアに侵入した。ブルグント族は西ローマ皇帝ホノリウスに休戦協定の一部としてローヌ川流域の土地を与えられ、フォエデラティ(foederati、ローマ帝国の同盟者)の地位を得た。しかしブルグント王国はフォエデラティであるにも構わず、ローマ帝国領のガリア・ベルギカ北部地域を襲撃した。反撃を受けたブルグント王国はローマ帝国の将軍アエティウス(Aetius)が呼び入れたフン族の傭兵によって437年に一旦滅ぼされた。443年、ブルグント族は西ローマ皇帝により再びフォエデラティの地位を与えられた。451年、ブルグント族はカタラウヌムの戦い(別名:タルーニャ平原の戦い)でローマ帝国と共にフン族と闘った。また西ローマ皇帝グリケリウスを擁立するなどしてローマ帝国の政治に介入した。ローマ帝国との繋がりを深めていったブルグント王国であったが五世紀末に西ローマ皇帝位は廃絶した。ガリア北部に残っていたローマ帝国領ソワソン管区486年にはメロヴィング朝フランク王国に滅ぼされ、534年にブルグント王国もまた北から攻めてきたフランク王国によって滅ぼされた。
ブルグンディア分王国

ブルグント王国の滅亡後、ブルグントはブルグンディア分王国としてフランク王テウデベルト1世キルデベルト1世クロタール1世に分割された。558年、ブルグンディアを含む全フランクをクロタール1世が統一した。クロタール1世の死後にフランク王国は再び分裂し、次男のグントラムがブルグンディア王となった。グントラムには継嗣がいなかったため、甥でありアウストラシア(現在のベルギーからドイツ中部にかけての地域)の王でもあるキルデベルト2世を後継者とした。キルデベルト2世の母であるブルンヒルドの摂政下でキルデベルト2世、テウデリク2世、シギベルト2世の3代にわたってブルグンディアとアウストラシアは共に相続された。しかし613年ブルンヒルドとシギベルト2世はネウストリア王クロタール2世の攻撃を受けて殺された。これによってブルグンディアを含む全フランクはクロタール2世によって再統一された。以後、ブルグンディア分王国はネウストリア分王国(フランス北部)と共にフランク王の嫡流に継承された。ブルグンディア分王国とネウストリア分王国が合併することは無く、別々の行政区分とされた。

751年ピピン3世カロリング朝を開いた。768年にピピンが死去すると、フランクの相続法に従い王国は二人の息子に分割された。ブルグンディア、プロヴァンス、ラングドックを手に入れたのは弟のカールマンだった。771年にカールマンが死去すると兄のカールがフランク全域の王となった。カールはフランク王国の領土を広げ、800年にはローマ教皇によってローマ皇帝として戴冠された。843年フォントノワの戦いを経たヴェルダン条約によってフランク王国はカール大帝の三人の孫に分割された。ブルグンディアの大部分は長男ロタール1世の皇帝領に属した。だが、ソーヌ川北側のブルグント北西部は末弟シャルル2世の西フランク王国領となった。855年にロタール1世が死去すると、皇帝領は長男ロドヴィコ2世のイタリア王国、次男ロタール2世のロタリンギア王国、末弟シャルルのプロヴァンス王国に3分された。ブルグンディアはアルプス山脈を境として北部はロタリンギア王国、南部はプロヴァンス王国に属した。こうしてブルグント(ブルグンディア)は三分され、それぞれの道を歩むことになった。
キスユラブルグント王国(プロヴァンス王国)詳細は「プロヴァンス王国」を参照詳細は「キスユラブルグント王国」を参照

シャルルのプロヴァンス王家は863年に一代で断絶した。兄のローマ皇帝ロドヴィコ2世がプロヴァンス王を兼ねたが、869年メルセン条約によってプロヴァンス王位は西フランク王国のシャルル2世が得た。879年、プロヴァンスの統治を任されていたボソが反乱を起こして独立を宣言し、プロヴァンス王国が復活した。ボソはキスユラブルグント(下ブルグント)も勢力範囲としていたため、ボソのプロヴァンス王国は別名をキスユラブルグント王国(下ブルグント王国)と言い、首都はブルグント領内のヴィエンヌであった。882年にボソは弟のリシャール正義公が率いる西フランク軍に破れてプロヴァンス王国は再び西フランク王国に統合された。888年に西フランク王国がローマ皇帝カール3世に相続され、ブルグント含む全フランクが統一された。しかしカール3世が死去するとフランク王国は五分され、ボソの息子でカール3世の養子ともなっていたルイ3世がキスユラブルグント王国(プロヴァンス王国)を復活させた。900年にプロヴァンス王ルイ3世はイタリアに進出した。イタリア王を兼ねてローマ皇帝にもなったルイ3世だったが905年に対立イタリア王のベレンガーリオ1世に目を潰されてプロヴァンスに追い返された。失意のルイ3世は911年アルルへ遷都した。アルルへ遷都した後のキスユラブルグント王国はアルル王国とも呼ばれる。ルイ3世の失脚後にキスユラブルグント王国の実権を握ったプロヴァンス公ユーグは、ユーラブルグント(上ブルグント)王国のルドルフ2世とイタリアを巡って争った。933年ユーグルドルフ2世にイタリアを諦めさせる代わりにキスユラブルグント王国を譲り渡した。両ブルグント王国は合併し、プロヴァンス王位は廃止された。
ユーラブルグント王国詳細は「ユーラブルグント王国」を参照

ヴェルダン条約締結後、ブルグント王位はユーラブルグント(上ブルグント)を領有したロタール2世ロタリンギア王位に含まれていた。ロタール2世が継嗣無く没すると、ロタリンギアはメルセン条約によって東西に2分された。ロタリンギア王位と共にブルグント王位は空位となり、プロヴァンス王ボソがブルグント王を自称した。


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