ブルグント人
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455年、サーブ族と戦うため、グンディオクと彼の兄弟キルペリク1世は、西ゴート王テオドリック2世にスペインまで随行したが、これはブルグント人と西ゴート族の同盟がいかに強力であったかを示している[12]
帝国への野望

『infidoque tibi Burdundio ductu』の曖昧な記述によると[13]455年ヴァンダル族によるローマ略奪に先立つ混乱の中、無名のブルグント人のリーダーが裏切り、ローマ皇帝ペトロニウス・マクシムスを殺害したらしい。貴族リキメルもまた非難された。この事件はブルグント人とリキメルの関係を示す最初のものである。リキメルはおそらくグンディオクの義兄弟で、グンドバト王子の叔父であったと考えられている[14]

明らかにブルグント人の権力は増大し、456年には地元のローマ元老院議員と領土拡張と権力分担と交渉した[15]

457年、リキメルは他の皇帝アウィトゥスを破ってマヨリアヌスを王位につけたが、この新しい皇帝はリキメルとブルグント人にとって役に立たなかった。即位の翌年、マヨリアヌスはブルグント人が2年前に得た土地を奪った。さらに独自の行動を行う兆候を見せたが、461年、リキメルによって殺害された。

その10年後の472年、西ローマ皇帝アンティミウスの婿となったリキメルは、グンドバト王子と共に義父の殺害を策略し、グンドバト王子は皇帝を斬首した[16]。リキメルはオリブリオスを皇帝に任命したが、驚くべきことに帝位に就けた者も就いた者も2か月以内に病死した。グンドバト王子は、叔父リキメルの貴族そして皇帝擁立者としての地位を継承し、グリケリウスを帝位に就けた[17]

474年にはブルグント人のローマ帝国に対する影響力は失われていた。グリケリウスはユリウス・ネポスにより退位させられ、グンドバト王子はおそらく彼の父グンディオクの死によってブルゴーニュへと戻った。この時あるいは少しの後、ブルグント人の王国はグンドバトと彼の兄弟であるゴデギゼル(Godegisel)、キルペリク2世(Chilperic II)、ゴドマール1世(グンドマール1世)によって分割された[18]
王国の統合

トゥールのグレゴリウスによると、グンドバトのブルゴーニュ帰還後、数年にわたり流血による権力の統合が行われた。グンドバトは彼の兄弟キルペリク2世を殺害し、その妻を溺死させ、娘たちを追放した(娘の1人クロティルダは後にフランク族クロヴィスの妻となり夫をカトリックへ改宗させた)[19]。この出来事については、グレゴリウスの年代記における多くの問題点を指摘したベリー(Bury)によって議論されている。

500年頃にグンドバトとクロヴィスとの間に戦争がおきると、グンドバトは彼の兄弟ゴデギゼルの裏切りに遭った。ゴデギゼルはフランク族に参加した。ゴデギゼルとクロヴィスの軍はグンドバトの軍を粉砕した[20]。グンドバトは一時的にアヴィニョンに身を隠し、再び軍を召集することに成功した。グンドバトがヴィエンヌを略奪した際、ゴデギゼルとその多数の部下が死んだ。これ以降、グンドバトはブルグント王国の唯一の王として登場する[21]。文献では触れられていないが、これは彼の兄弟ゴドマールは既に死亡していたことを示している。

グンドバトとクロヴィスは和解したが、初期段階でのクロヴィスの勝利の結果、グンドバトはその臣下となることを強いられ、507年に西ゴート族のアラリック2世に勝利した際はフランク族に協力した。

この激変の間、483年から501年までの間に、グンドバトは『Lex Gundobada』(下記参照)という法典を発布した。それは『Lex Visigothorum』を元に書かれたもので前半部分が発行された[22]。自身への権力集中後、501年から死去する516年までの間にグンドバトは法律の後半部分を発行したが、それはよりブルグント人本来のものであった。
第二王国の終焉フランク王国の一部としてのブルゴーニュ

ブルグント人はその力をガリア南部、つまり現代のイタリア北部・スイス西部・フランス南東部へと拡大させていった。493年、フランク王国の王クロヴィスはブルグント人のクロティルダ(キルペリク2世の娘)と結婚した。クロティルダはクロヴィスをカトリック信仰へと改宗させた。

ブルグント人は6世紀初頭に西ゴート族に対抗するためにクロヴィスのフランク族と最初に同盟を結成したが、結局534年にフランク族によって滅ぼされた。その後はメロヴィング朝の一部としてブルグント人の王国が作られ、ブルグント人自身も同化していった。
歴代ブルグント王

数字は在位年、文献[23]

             グンダハール
411-437

                          
           
         グンディオク
437-473 キルペリク1世 娘 リキメル 
 
                                 
                        
     グンドバト
473-516     ゴデギゼル
473-500 キルペリク2世
473-493 カレタナ ゴドマール1世
473-486  
  
                               
               
 オストロゴート
(東ゴート王テオドリック娘) ジギスムント
516-523 コンスタンティア ゴドマール2世
523-534 クロナ クロティルダ クローヴィス1世
フランク王 
     
                                  

   ジゲリック スアヴェゴータ               テウデリク1世
フランク王 
               

ブルグントの法律

ブルグント人は、ゲルマン民族から受け継いだ3つの法典を残した。『Lex Burgundionum』(ブルグント法典)あるいは『Lex Gundobada』(グンドバト法典)としても知られる『Liber Consitutionum sive Lex Gundobada』(グンドバト法典のための憲法の本)は、483年から516年にかけていくつかの部分に分けて発布された。発布は主としてグンドバトが、一部はその息子ジギスムントにより行われた[24]。 それはブルグント人の慣習法であり、またその時代における多くのゲルマン法典の典型でもあった。特に『Liber』は『Visigothorum』(西ゴート族法典)から借用され[25]、後の『Lex Ribuaria』(リブアリア法典)に影響を与えた[26]。『Liber』は当時のブルグント人の生活と王の歴史を知るための主要な文献の1つである。

多くの他のゲルマン民族と同様に、ブルグント人は各民族に合わせた法律を運用することを伝統的に認めていた。このためグンドバトは、『Lex Gundobada』に加えて、ブルグント王国でのローマに関する諸問題のための法律『Lex Romana Burgundionum』(ブルグント=ローマ法典)を編纂した。

これらの法典に加えて、グンドバトの息子ジギスムントは後に『Prima Constitutio』を発布した。
ブルゴーニュの起源

ブルグント人は、現代フランスの地域名であるブルゴーニュ(Burgundy)にその名を残している。6世紀から20世紀までこの地域の国境と帰属はしばしば変更されてきたが、いずれの変更も本来のブルグント人とは無関係だった。「ブルグント人」(Burgundians)という名前は後世に作られたものであり、より正確には、ブルゴーニュ地方の住民を示すが、そのブルゴーニュはラテン語でBurgundiones(ブルグント)と呼ばれた人々に由来している。今日、ブルグント人の末裔は、主としてスイス西部とフランスの近隣地域に見ることができる。
関連項目

ゲルマン人

東ゲルマン語群

ローマ帝国

ブルグント王国


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