ブルガリア公国
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ブルガリア公国[注釈 1](ブルガリアこうこく、ブルガリア語: Княжество България / Knyazhestvo Bulgaria)は、1878年から1908年にかけてバルカン半島に存在した公国である。露土戦争の結果として1878年3月に結ばれたサン・ステファノ条約により、オスマン帝国の宗主権下で広範な自治権を有する自治公国として成立した。

当初は現代のブルガリアにあたる地域を中心にバルカン半島南東部に広大な領土を約束されていたが、同年7月のベルリン条約における国境再画定で大幅に領土を削減された。ドイツのバッテンベルク家から招かれた初代ブルガリア公アレクサンダルは1885年にオスマン帝国の東ルメリ自治州を獲得してブルガリア再統一をほぼ達成し、セルビア公国の侵攻も撃退したが、こうした動きをバルカン半島の安定に対する脅威と見なしたロシア帝国の圧力を受け1886年に退位した。二代目のフェルディナントザクセン=コーブルク=コハーリ家(サクスコブルクゴツキ家)から招かれ、1896年にロシアとの関係修復と各国からの即位承認を獲得し、独裁体制を敷いた。

1908年にオスマン帝国で青年トルコ人革命が起きた混乱に乗じて、フェルディナントはオスマン帝国からの完全独立を宣言してブルガリア王を名乗り、ブルガリア王国が成立した。
背景
ブルガリア民族復興詳細は「オスマン時代のブルガリア」および「ブルガリア民族復興(ブルガリア語版)」を参照

1393年に第二次ブルガリア帝国が滅ぼされて以降、ブルガリアは独自の国家を失い、500年近くにわたるオスマン帝国の支配を受けた[11]。オスマン支配下のバルカン半島のキリスト教徒はミッレト制により保護されつつも、ムスリムギリシア人からの差別を受けた[12]。その中でも東方正教を信仰するブルガリア人は、オスマン帝国の中枢に近くヨーロッパ領における要となる地理的要因などのために、最も強くイスラーム化への圧力を受けた。一方で、ブルガリア人の多くが隔離された小村で生活してたこともあり、実際にムスリムに改宗する者は少数にとどまり、ブルガリア語や習俗などの伝統は生き残った[13]。修道士がブルガリア各地に学校を開設したり、古い聖人伝の写本を作成したりした動きもブルガリア人のエスニック集団としてのアイデンティティを維持するのに役立ったが、後世のナショナリズムの勃興や国家独立運動に直接つながることはなかった[14]

オスマン帝国の衰退が進む18世紀、ブルガリア人の「民族復興運動」が出現した。少数の「覚醒者」がブルガリア文学とブルガリア史の復活を試みる文化復興運動から始まり、次第にオスマン帝国内で特権的地位を持つギリシア人にも比肩ないし優越し得る歴史を持つブルガリア民族と祖国の存在が主張されるようになった。さらに19世紀にかけて、経済、社会、政治の広範な面でオスマン帝国の支配を打ち破る変化が生まれ、運動の目的は文化復興から民族復興へと発展していった[15]。1820年代には多くのブルガリア人留学生がロシアやプラハに留学し、また1821年に勃発したギリシア独立戦争に参加して西欧思想に触れた者もいた。彼らはブルガリアに戻ると学校開設や教育に力を入れ、その結果19世紀中盤までにブルガリア語を含む民衆教育が整備された。またブルガリア内でもオスマン帝国の衰退と産業育成政策の恩恵を受けたブルガリア人商人や製造業者が、教育や公共施設への投資に富を注ぎ込んだ。こうしてブルガリアの知的水準が急速に上昇するとともに、新たに形成された知識階級とその出身地である農村が緊密に結びついたことで、19世紀後半の民族独立の基盤が形成された[16]
独立闘争「四月蜂起(英語版)」および「東方危機(英語版)」も参照ブルガリアの革命指導者ヴァシル・レフスキ。ブルガリア各地に秘密組織のネットワークを築き、その後の運動に大きく寄与したが、1872年にオスマン当局に逮捕され、翌年処刑された。

オスマン帝国支配に対する武力闘争も、19世紀半ばからバルカン半島全体で激化していた。1860年代、ゲオルギ・ラコフスキ率いるブルガリア軍団やブルガリア秘密中央委員会などの秘密結社が組織されて武装闘争を展開し、短命ながらブルガリアの政治的解放を目指す革命運動の先鞭をつけた。その中から出てきたヴァシル・レフスキリュベン・カラヴェロフフリスト・ボテフらによるブルガリア革命中央委員会が1870年に設立され、再編を繰り返しながら地下活動を展開した[17]

1875年のボスニアにおける反乱や1876年のセルビア・オスマン戦争(英語版)勃発に乗じ、ブルガリア革命中央委員会は1876年4月に4つの革命区で武装蜂起した(四月蜂起(英語版))。オスマン帝国はこれを鎮圧し、5月5日にブルガリア南部バタク村で約5千人のブルガリア人を殺害した(バタクの虐殺)のをはじめ、8月までに約3万人のブルガリア人を殺害した[18]。こうしたオスマン帝国内の混乱と残虐行為はヨーロッパ列強の非難を浴びることとなり(東方危機(英語版))、12月にロシアがスラヴ民族救済を口実としてオスマン帝国に宣戦布告する事態となった。この露土戦争ではブルガリア人の中から市民軍(民兵)が結成され、ロシアの勝利に貢献した[19]。蜂起失敗後に再建された革命中央委員会も、革命的な性質を失い、ロシアの汎スラヴ主義組織から資金援助を受けてロシアへの依存を深めていった。後にこの組織がブルガリア国家の指導層になることを見越し、ロシアはブルガリアを解放しつつその指導者構成に介入していた[20]。1878年にロシアがソフィアを攻略すると、翌月に休戦が成立した[21]
歴史
サン・ステファノ条約とベルリン条約「サン・ステファノ条約」および「ベルリン条約 (1878年)」も参照サン・ステファノ条約によるブルガリア領土案(黒線)と、ベルリン条約による分割。最終的に、ブルガリア公国(Principality of Bulgaria)には全体の東北部のみ残された。

1878年3月3日、イスタンブル郊外サン・ステファノ(英語版)で露土戦争の和平条約が結ばれた。このサン・ステファノ条約はブルガリア国家の創設をうたい、その領域は北はドナウ川、南はロドピ山脈エーゲ海沿岸部、東は黒海、西はモラヴァ川やヴァルダル渓谷に至る広大なもので[21]、その中にはバルカン山脈以北の高原地帯、アドリアノープルを含むトラキア、ウスクブ(スコピエ)、オフリド、デバルを含むマケドニアアルバニアコルチャ、ギリシアのコストルも含むものとされた[22]。オスマン帝国に貢納する自治公国(самоуправляющееся, платящее дань, Княжество)という位置づけではあったものの[23]、この大ブルガリアを体現する広大な領土構想は、ブルガリア人ナショナリストにとってこれ以上ない案であった[21]

しかしこの条約では、ブルガリア国家が成立するまで2年間、ロシアがその広大な領域を軍事占領することになっていた。これはロシアによるバルカン半島支配の足掛かりにほかならず、イギリスオーストリア=ハンガリー帝国の激しい抵抗に遭った。


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