紀元前2600-1900年ごろを指す。だいたい紀元前2600年より後のいずれかの時期に、ブリテン島にビーカー人がはじめて渡来してきた。ビーカー人は銅器(のちには青銅器)と鐘状ビーカーを扱う人々で、定住跡がなく、住居跡はどれも臨時に作られたものばかりであることから、流浪の民であったと推定される。彼らは鋳掛
屋、鋳物師、交易商人などとしてブリテン諸島各地を渡り歩きながら、ビーカーや金属製品を普及させた。ビーカー人は特に、金装飾に高い技術を持っていた。火葬が行われ、ビーカーとともに埋葬された。彼らが各地の先住民とこのような交流を行うにつれて、ブリテン諸島全体に商品経済の概念が普及した。銅器は武器・農耕機具に使われ、労働生産性の向上とともに、ビーカー人の領域拡大を助けた。ただ、労働生産性の向上はその定義によって、労働分配率の低下と同義である。一部の人々が個人的な富の蓄積を増大するようになり、地元住民の間で富の格差が拡大した。これは各地の社会の垂直構造の確立につながり、ブリテン諸島は部族国家群的な社会となっていった。
ビーカー人は同時に戦士でもあった。当初は単なる流浪の民であり、先住民の住む各地を回って細々と商売をしていたとみられるビーカー人たちは、時代が下るごとに先住民の社会を経済的手段ないし軍事的手段で同化吸収し、彼らの社会構造はブリテン諸島全体を支配するようになった。 この時期のうち、とくに紀元前2000-1650年
ウェセックス文化第I期
ウェセックス文化の場合は、たとえば部族のようなひとつの集団の上層から下層まで広がった垂直的な文化を示すのではなく、その時代のその地域の複数の部族のそれぞれに存在するとある社会層(social stratum)に水平的に広まった文化を意味する。この場合は、当時のブリテン諸島の各社会の上流層に共通する文化である。ビーカー人がもたらしたビーカーや金属加工品は、地元住民の社会の上流層に普及したのである。
この時期はビーカー人の活躍によって先住民の社会や文化が大いに刺激された時期である。石材の加工や運搬の技術が発展し、ストーンヘンジの第II期から第III期にあたる。それまでは小さな祭礼施設であったストーンヘンジが、巨石建造物として大規模化されたのはこの時期にあたる。ただしこの時期のストーンヘンジの増築には、以前の時代と異なり、もはや暦学的な意味はほとんどなくなった。
また、商品経済の普及で富の格差が広がって社会の階層化が進み、各地の部族が勢力を拡張するようになった。支配層は非インド・ヨーロッパ語族の地元民から出た可能性もあるが、いずれにせよインド・ヨーロッパ語族の渡来人が、上流階級の社会において少なくとも非常に重要な役割を果たしていたであろうと思われる。
この時代は大陸との交易もより活発となった。当時のインド・ヨーロッパ語族のヨーロッパにおける中核ともいえる、中央ヨーロッパの「ウーニェチツェ文化」との間で交易関係があったことが分かっている。 紀元前1650
ウェセックス文化第II期
この支配拡大の手段が経済的なもののみであったのか、それとも武断的であって武力で服属させるのが一般的であったのかどうかについては、現在でも議論がある。しかし、分子生物学を用いた調査結果によると、ブリテン諸島へ進出していったころの彼らは人口の面では地元民と比較して圧倒的な少数派であったはずである。その後の時代でも、少なくとも男系の混血が社会全体に広まることはなかった。彼らは地元民を社会的に同化吸収していったが、これは父系的な血統の相続によるものではなく、単なる社会構造の伝播現象だったようである。彼らは貴族層となったはずであるが、彼らの(男系の)子孫は圧倒的な社会的少数派で、世代が下ろうとも、社会の下層に降りてくることはまずなかった。彼らの社会構造はこのようにしてブリテン諸島全体に水平的に拡大していった。同時に、ケルト語派の諸言語が、様々な地方的訛りを伴ってブリテン諸島全体に拡大していった。
金属加工の技術が飛躍的に向上し、よくできた工芸品や武器が副葬品などとして多量に残されている。広い地域で貿易を行っており、ミケーネの銀器・金器も見つかっている。またこのころ、銅に錫を混ぜて青銅をつくる技術、鋳型によって大量生産する技術が急速に発達した。コーンウォールやデボンの錫鉱は豊富な埋蔵量があったため、活発に採掘が行われ、大陸に輸出された。
ウェセックス文化第I期と異なり、この時代の人々の間では巨石建造物の建設への興味は急速に失われていった。たとえばストーンヘンジは、その当時でもいまだ祭礼の施設として使われていた可能性もあるが、この時代のはじめの紀元前1600年ごろに作られたZ群の部分の囲いを最後に、目立った意匠がつけ加えられることはもはやなくなった。
このころからブリテン諸島の広い範囲で、それぞれ大きくまとまった諸部族となった。彼らは鉱物資源などを求めて争い、戦争もおこった。焼け落ちた防塞も時おり発見されている。いまだ判明していないことも多いが、おおよそ以下のような生活をしていたと考えられている。20ヘクタールほどの土地を壕と柵で囲い集落を作った。そのなかで大麦・小麦を栽培し、牛や豚を飼育していた。戦士たちが貴族として支配層となり、農民たちは牛に犂をひかせていた。夜になるとビーカーとよばれるベル型の器にビールやハチミツ酒を注ぎ、晩餐を楽しんだ。戦士たちは時おり戦争に行き、勇敢さを競いあった。特に錫などの鉱山はしばしば争奪戦がおこった。というのも、こうした鉱物はギリシアと取引するために必要だったからである。ビーカー人たちは金銀がちりばめられた美しい装飾品に魅せられ、ギリシアまで商取引に赴いた。死者には石碑をつくり、装飾品などを添えて埋葬した。
脚注^ ⇒Eupedia1
^ ⇒Eupedia2
^ ⇒Eupedia1
^ ⇒Eupedia2
外部リンク
⇒クラクトニアン型石器のスケッチ
⇒Ancient Human Occupation of Britain Project 先史ブリテンプロジェクト(英語)
⇒700,000 year old remains in Norfolk 70万年前のノーフォーク(英語)
⇒The Boxgrove project ボックスグローブ・プロジェクト(英語)
ブリテンの歴史
アイルランドイングランドスコットランド
先史時代
ゲール人ブリタンニアピクト人
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(国名同上。アンジュー帝国とも)
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百年戦争
ステュアート朝
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(国名同上)(国名同上)(国名同上)
清教徒革命、政教分離